竹田悦堂先生遺作展見学会

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 現代書道院から、竹田悦堂先生の遺作展を、平成19年1月19日から2月18日まで、山梨の身延町西嶋で開催するとのご案内を頂きました。車を飛ばして見に行こうかとも思ったのですが、他にも行きたい人が居るはずだし、バスを仕立てて行こうかと思い立ちました。

 西嶋は書道用和紙の生産地として名を知られており、碑林公園で有名な市川大門や硯の産地雨畑などの見学と組み合わせれば、1泊2日の手頃のバスツアーが仕立てられます。

日取りは2月11日(日)と12日(月)、コースは以下の通りです。

(第1日目)
西日暮里(開成学園前)→甲府駅前小作(昼食ほうとう)→大門碑林公園→なかとみ和紙の里工芸美術館(竹田先生遺作展)→下部温泉(元湯橋本屋旅館)

(第2日目)
下部温泉→早川町雨畑硯の里硯匠庵(昼食豆腐御膳)→西嶋丹頂製紙工場見学→新宿→西日暮里開成学園前

 初め参加者を24〜5人と想定して、28人乗りの中型バスを予約したのですが、最終的には玉井敬楚先生も加わって、総勢32名になり、45人乗りの大型バスを借りることにしました。

 ところが出発の数日前になって、丹頂製紙の工場見学をアレンジしていただいた、劫栄麓の笠井社長から、雨畑へ行く道は狭くて、大型バスは入らないそうですよとの電話がありました。現地に問い合わせてみると、確かにその通りなので、あわてて現地のバス会社に電話を入れ、旅館と雨畑往復用に28人乗りの中型バスを手配しました。

 当日予定通り9時に出発、天気が良く、しかも連休とあって首都高速も中央高速もかなり混み合い、甲府駅前には予定より30分遅れて12時丁度に着きました。予約をしておいたので席は確保されていましたが、ほうとうを食べさせる「小作」は大層な混みようで、入り口付近は順番待ちの客で溢れかえっていました。

 「ほうとう」は信玄公ゆかりの野戦食で、「きしめん」や「ひもかわうどん」より一回り太い平たい麺を、南瓜、馬鈴薯、里芋、白菜、ねぎ、ごぼう、人参、椎茸、等と煮込んで、鍋ごと供される豪快な郷土料理です。

 最近は観光客向けに「ほうとう」もバラエティーに富んで来て、「茸ほうとう」「熊ほうとう」「すっぽんほうとう」などというのもメニューに載っていました。私も一寸変わった「小豆ほうとう」と言うのを食べてみなしたが、これは失敗でした。砂糖味で、鉄鍋に入った薄い汁粉に大量のうどんが浮遊している奇妙な食べ物で、半分も食べないうちに胸が一杯になってしまいました。

 他に小豆ほうとうを頼んだ人は、4〜5個の小鉢に取り分けて周りの人にデザートとして供し、そのかわりに南瓜ほうとうを。分けてもらっていました。これが正解のようです。

 甲府駅前から大門碑林公園まではバスで40分弱。このあたりも和紙の産地で、10軒近い製紙工場があるのですが、残念ながら書道用の紙は作っていません。碑林公園は、山の斜面に面した一角にあり、盆地を一望でき、遠くに南アルプスの山々も眺望できる眺めの良い所です。さぞや寒かろうと覚悟して来たのですが、天気が良くて風もなく、まことに麗らかな日和でした。

 「曹全碑」「九成宮醴泉銘」「高貞碑」「孔子廟堂碑」「雁塔聖教序」などの名だたる名品の摸刻碑が15本、中国風の東屋の中に納まっていました。勿論西安碑林とは数の上でも比較にならないし、磨り減った拓本からの摸刻ですから、大きな期待をかけるほうが無理ですが、そこそこの雰囲気を味わう事はできます。だいたい西安の碑林では、一寸立ち止まって眺めていたら、ガイドがどんどん歩いていってしまって、迷子になりそうになりましたが、ここならいくら眺めていても大丈夫。なにせ敷地全体を一望できるのですから。

 大門からさらに30分ほどJR身延線に沿って南下すると、身延町西嶋に着きます。この近辺には昔から野生のみつまた、楮などが群生していて、豊富な富士川の水にも恵まれ、400年以上も前からこれらを原料に和紙の生産が盛んな所でした。戦後竹田悦堂先生が中心となって書道用の和画仙紙の生産を始め、全盛時代には西嶋町を中心に1000軒以上の製紙工場が操業していたそうです。

 今では書道用紙を生産している工場は西嶋に7軒残るだけとなってしまいましたが、和紙を通じて町興しをしようと「なかとみ和紙の里工芸美術館」が建てられ、立派な駐車場や売店が併設されています。そして西嶋の書道用紙開発の中心となった功労者の竹田先生の遺作展が今回ここで開催される運びになったと言うわけです。

 工芸美術館3室に、大字、細字、漢字、かな、近代詩文書風の作品に至るまで、合計121点、昭和20年代から、平成まで60年間以上の多岐にわたる先生の労作が、屏風、掛軸、巻子、扇面等に仕立てられて並んでいました。私は今までに竹田先生の作品をしみじみ拝見する機会に恵まれませんでしたので、心行くまで拝見させていただきました。 「書と和紙の懸け橋」と銘打たれているだけあって、文字と料紙の調和も大変参考になりました。
写真撮影禁止のため、会場の様子をご紹介できないのが残念です。

 5時の閉館時間までここで過ごした後、下部温泉に向かいました。出来れば谷間の秘湯十谷温泉に泊まりたかったのですが、冬場は途中の道路が封鎖されて通れないとのことでした。そこで下部温泉でも一番上流にある「元湯橋本屋」に宿を取ったのですが、不便な所で、大型バスの駐車場から歩いて15分もかかったのは一寸した誤算でした。

 昔ながらの湯治場と言った雰囲気の旅館で、部屋は狭くてトイレが付いていない部屋が大部分でしたが、旅館を挙げて一生懸命サービスしてくれました。大広間に32人分のお膳を並べて、昔風の宴会をやりました。かつての社員旅行は大体このようなスタイルで、課長や主任さんの前に膝でにじり寄ってお酌をしたのを、はからずも思い出してしまいました。
 
 翌日の午前中は「雨畑硯の里硯匠庵」の見学です。硯の制作体験を希望する6名が先行して9時に旅館の送迎バスで送ってもらいました。確かに大型バスはとても通れそうもない山道とトンネルを抜けて、40分ほどで着きました。ダムによる人造湖と吊橋が美しい谷間にぽつんと建っていました。

 雨畑硯は黒・青・紫の三色があり、700年の伝統を誇る和硯の名門ですが、現在採掘場は閉鎖されていて、今までに採掘した物を細々と使っているとのことでした。硯工の技術も高いのですが、雨畑に3人、鰍沢に3人、地域全体でも10人に満たないほどに減ってしまったそうです。鰍沢では宮城の雄勝石を輸入して加工し、雨畑硯として売っています。鰍沢のお店の人は、原石は雄勝石でも雨畑の技術で加工しているのだから雨畑硯なのだと胸を張っていました。

 それと区別するためか、ここ雨畑の石は、雨畑真石と銘打っていました。その雨畑真石の硯の素材が6個机の上に並んでいました。本職でも硯の製作には6時間ぐらいかかるので、体験出来るのは、殆ど出来上がったものを2時間ほど掛けて、最後の仕上げと研磨をやるだけなのですが、それでも一同硯石の粉末に手を真っ黒にして懸命に取り組んでいました。出来上がった作品の裏に日付とサインを入れて、世界でただ一つの硯だと満足気でした。

 制作体験をしない第2陣が、小型バスで1時間後に到着し、硯匠庵を一通り見学した後、隣のヴィラ雨畑で一同打ち揃って豆腐御膳の昼食を食べました。

 最後の見学先は、西嶋の丹頂製紙工場です。丹頂製紙の一ノ瀬社長は竹田先生と協力して、西嶋の和画仙を開発・完成させた立役者の一人で、ご子息と一緒に工場を案内し説明して下さいました。

 現在は当時と製法が異なり、みつまたや楮の古紙を藁と混ぜ、水と苛性ソーダを加えて1時間ほど煮て漂白した物を原料としているそうです。苛性ソーダが油分を完全に除くため、程よいにじみが得られるのだそうです。

 原料を水に混入したものを漉き網の上に流し込んで紙を漉き、重ねていきます。漉き網の底のすだれのが紙にうっすらと模様をつけます。1人1日700枚ぐらい漉くとのことですから、かなりの重労働です。何人か紙漉きの体験をさせてもらいましたが、我々が漉いた紙には赤い目印がつけてありましたから、後で不良品として廃棄される運命にあるのでしょう。

 漉いて重ねられた紙は、圧縮して水を抜いた後、一枚ずつ剥がして、熱した鉄板の上に貼り付けて乾かします。破れやすいこの工程は、熟練するのに3年かかるそうです。これらの工程を見学した者は、ほぼ例外なくこれからは紙を大字に使おうと反省するようです。

 これで全行程を恙無く終了し、帰りの混雑を予想して、予定より1時間早い午後2時半に丹頂製紙を辞し、新宿東口には5時半、西日暮里の開成学園前には6時に着きました。殆どの人が新宿で降りてしまい、西日暮里まで乗ってきたのは僅か5人でした。つくずく西日暮里は田舎なのだと痛感した次第です。この次のバス旅行は、最初から出発点を東京か新宿にしておいたほうがいいのかな。

                   (林 閑 堂 記)

 

(45人乗りの大型バス)

(鉄鍋ごと供されるほうとう)

(碑林公園「九成宮醴泉銘」碑)

(碑林公園からの眺望)

(なかとみ和紙の里工芸美術館)

(竹田先生の遺作 A)

(竹田先生の遺作 B)

(湯本橋本屋。なぜか風林火山)

(昔風の宴席)

(硯匠庵)

(制作体験用の素材。殆ど完成品)

(硯製作に励む)

(和画仙紙の原料)

(紙漉き体験)

(熱した鉄板に貼り付けて乾燥)

(みつまたの木)

(雨畑湖と吊橋)