(第二回法人せいわ総会後の文化講演会の概要です。講師の新井魏氏は毎日新聞学芸部に所属され、「書の世界」を初め書道に関する記事や評論に健筆を振るっておられるので、皆様もよくご存知と思いますが、昨年良寛の研究で母校の早稲田大学から文学博士号を授与されました。)

 先ほども控室で何故良寛に興味を持ったのかと質問をされましたが、私は三十数年前に毎日新聞に入社して最初に長崎に赴任しました。東京を出発する時は防人の気持ちになりました。赴任する時には駅まで役員が見送りに来たりして、これは簡単には帰れそうもないぞと思いました。

 長崎には五年居ましたが、そのうち四年は原爆を取材しました。原爆で亡くなった方たちの酷い姿の写真を沢山見て、人間とはこんなに無残な殺され方をするものか、人類の英知などと言うがそれが仕合せに結びついていない、人間とは一体何なんだとの根源的な問いかけをされた感じがしました。

 戦後のある時期、未来が自分達の人生で拓けると思っていた頃もあったのですが、自分の人生、生きる価値、生きる意味とは何かを、記者生活の中でずっと考え続けるようになったのです。良寛に関心を持つようになったのはそんな所からです。

 当時原爆問題は、市役所担当記者が扱っていましたから、夕方になると市役所の原爆対策課に出かけていって、今日は原爆関連のニュースは何か無かったか聞くわけです。

或る時市役所に松尾ヨセさんというお婆さんがやってきて、原爆の時行方不明になったご主人の遺骨を捜して欲しいと頼みました。ご主人は大工さんで、原爆投下の日お弁当を持って町の中心地に仕事をしに向かったきりになっていたのです。

私が長崎に赴任したのは原爆投下から三十年以上経っていました。お婆さんはそのとき八十八歳で、自分も間もなくお迎えが来るだろうからそのときはお爺さんの遺骨と同じ墓に入りたいと言う強い思いがあったのです。

お婆さん自身も、勿論そのときは未だお婆さんではありませんでしたが、原爆の被害にあって、戸板で運ばれて救出されました。奇跡的に助かって長生きをしているので、近所の人達からは亀お婆さんと呼ばれていました。

私はこの話を聞いてこれは社会面の記事になると思い、お婆さんの取材をしたのですが、撮った写真を現像しようと思ったらフィルムが入っておらず、結局記事になりませんでした。

毎年六〜七月の原爆シーズンになると、いろいろ企画記事が計画されます。その後暫くしてからもう一度記事にしようと思いたち、再度このお婆さんの所へ伺いました。お婆さんはもう前の自宅ではなく老人ホームに入っていましたが、快く取材に応じてくれました。亡くなったお爺さんには会えないかもしれないけれども、長崎の平和記念像のお堂に来てもらって話を聞き、「今でも遺骨を探す八十八歳のお婆さん」というテーマで記事にして夕刊に結構大きく載りました。

蝉時雨の昼下がり、取材が終わってベンチに座っているお婆さんをふと見ると、ハンカチを眼に当てて泣いているんです。それを見て「今日一日、本当に有難うございました」とお礼を言ったところ「貴方のお陰で本当に初めてお爺さんに会った気がします。もう何時死んでも思い残すことはありません」といってまた泣くんです。その姿を見たときに、ああ人は生きる価値があるんだなあとしみじみ感じまして、そういった流れの中でだんだん良寛に惹かれて言ったわけなのです。

良寛の生き方、思想には人の究極的な問いかけに答えうる何かがあるという気がします。皆さんも良寛については色々なイメージを持って居られましょうが、私がこれぞ良寛だなあとしみじみ感じたのは、隆泉寺というお寺に良寛の墓がありまして、そこへ行った時のことでした。

新潟の天候は変わりやすくて、青空が出ているかと思うと、雪下ろしの雷と言って雪がダーっと降ってくるような中を車で隆泉寺にむかいました。こういう厳しい気候の中に良寛は住んでいたのかと先ず感じました。墓の前に立ったら急に晴れて来て、割に大きいお墓がありました。良寛さんのお墓に相応しくないと言う人もいますが、生きていた時は狭い所で我慢していたんですから、死んだ後くらいは大きな所に入っても良いんではないかとも思いますよね。上に枯木があって、その上には青空が広がって何ともいえないすがすがしさがありました。その墓に前に立った時に何か地中から暖かいものがふわっと来る感じがしましたが、同時に冬の厳しさも感じられました。その厳しさと暖かさを同時に感じたのが良寛との最初の出会いでした。

墓石の右側には僧の詩という当時のお坊さんの腐敗ぶりをこれでもかと厳しく糾弾した詩が刻んでありまして、左側には「やまたづの向かひの岡にさ牡鹿立てり 神無月しぐれの雨に濡れつつ立てり」という旋頭歌が刻んである。小鹿が十一月のしぐれにうたれている、可哀相だなあという良寛の暖かい心を重ねた歌です。これを見たとき良寛とはこういう人だと思いました。基本的に良寛は愛の人です。しかし良寛の愛には厳しさと暖かさの両面がある。今の世の中、愛と言うと暖かさだけと受け取られていますが、本当の愛には厳しさも必要なのではないかと思います。

良寛についての話は広く言い伝えられていますが、良寛が学問的に検証されるようになったのは大正時代に入ってからです。

最初は長岡中学の漢文の先生をしていた西郡久吾という人が「北越偉人沙門良寛全伝」という本を書きました。やや遅れて相馬御風という人が「大愚良寛」を書きました。大愚は良寛の雅号でもあるのですが、良寛を人間的に捉えています。

相馬御風は自然主義運動に参加して、早稲田大学でも嘱望されていた一人なのですが、運動に挫折して故郷の糸魚川に帰り、自分の挫折体験と重ね合わせて良寛を人間的に理解しようとしました。良寛自身も挫折の多い人なんですね。御風は早稲田大学の校歌「都の西北」を作った人ですが、童謡の「春よ来い 早く来い 歩き始めたみよちゃんが」の作詞者でもありまして、この感性で良寛を捉えようとしているのです。私はこの御風が捉えた良寛が真実の姿に近いのではないかと感じました。そこで、私もまた良寛を人間的な観点から把握しようと考えました。

「愛の人」良寛の愛の源泉がどこから来るのか、それは母親ですね。良寛は非常に謎の多い人です。父親は以南といわれていますが疑問があります。また名主の家に生まれながら何故出家しなければいけなかったのか、出家の理由も納得できるものがありません。出家して、鰻の寝床のような細長い昔の宿場町だった出雲崎を旅立つ時「うつせみは つれなきものと むらぎもの 心にもえて 家を出て うかうをはなれ 浮雲の 雲のまにまに 行く水の 行方も知らず 草枕 旅ゆくときに たらちねの 母に別れを 告げたれば 今はこの世の 名残とや 思ひましけむ 涙ぐみ 手に手をとりて 我が面を つくづくと見し 面影は 猶目の前に ある如し」―この出雲崎を出て母親と別れるとき、さようならと言ったら、この世で二度と逢う事は無いだろうと思ったのか、母は手をとって何も言わずに涙ぐんでただじっと自分の顔を見たというんですね。その母の面影が今でも私の目の前にある、この歌は良寛が四十代半ばに五合庵に住むようになって、二十年位昔を思い出して歌っているのですが、その母の面影を思い出して浮世の人に対して常に暖かい心を持っていたいと何時も自分を戒めていると言っているのです。ここに良寛の愛の源泉があるような気がします。

父親の話はあまり出てこなくて、殆ど母親の話ですが、近くにお地蔵さんがあって顔が非常に母に似ているとか、母に親不孝をしてしまったが、ここで詫びているとか、何故母に親不孝をしたといっているのかわかりませんが、何か深いわけがあるんだと思います。よく子供の頃から美しい心の持ち主でなどと書いてありますが、そうでは無くて何か深いわけがある、逆に深いわけがあるからこそ良寛の愛には深さがあるといえましょう。母の歌には有名な歌がいくつもありますが父親のは無い。この辺に良寛を理解するヒントがあると思います。例えば「たらちねの母がかたみと朝夕に佐渡の島べをうちみつるかも」「沖つ風いたくな吹きそ雲のうらは我がたらちねの奥津城どころ」など良寛記念館に歌碑があります。

良寛と別れた後母は丘に登って北国街道を永通寺に行く良寛の姿が見えなくなるまで見送ったという伝承があります。冬の出雲崎は大変厳しい。本当に良寛を理解するには雪の厳しい時期に行ってあの丘の上に立てばいいなどとも言われています。

良寛は愛の人だと申しましたが、いろんな愛があります。良寛は大変情の濃い人だったんです。例えば国上山の麓の五合庵に住んでいた時、よく訪れた人に近くに住んでいた庄屋の阿部定珍さんという人がいました。定珍さんは造り酒屋ですからきっと一升瓶ぐらいは提げてきたんでしょうが、一人暮らしの良寛さんは歓迎します。しかし定珍さんは庄屋で忙しい身ですからいずれ帰らなくてはいけない。お暇をいたしますと言うと良寛さんは歌を作って引き止めます「月よみの光を待ちて帰りませ山路は栗のいがのおつれば」山道は暗いから月が出てから帰りなさい。栗のいがを踏むといけないというわけです。そうなると何となく帰りにくいですね。ですがしばらくしてやはり帰りますと言うと又歌を作ります「心あらば草の庵に泊まりませ苔の衣はいと狭くとも」まあそう急がずに、よかったら泊まっていきなさいよ狭いところだけれども。定珍さんが、そうはおっしゃるけれども良寛さんやっぱりお暇しますというと最後に良寛さんの作った歌が「今日別れ明日は逢ふ身と思えども測りがたきは命なりけり」こういわれると帰れなくなりますね。

もう一つエピソードをご紹介しますと、良寛さんの参禅の後輩で五・六歳年下の三輪左一さんという人がいたのですが、死んでしまいます。良寛さんはそのときに、自分を捨ててどこへ行ってしまったという内容の詩をつくります。これは良寛さんのことだから当然として、それから二十年も経って良寛さんが七十を過ぎてから、左一さんの夢を見ます。朧月夜で風が吹いていて二人で手を取り合って語り合い八幡様のところまで来てしまったという内容で、眼が覚めてからも目の前にいるようだったと言っています。本当に情が深いですよね。私など夢に見るのは高校の時に死んだわん公の夢ぐらいのものです。

こんな話もあります。あるとき皆で集まってお茶を飲みました。その頃茶会では茶を回し飲みしました。良寛さんのところへ茶が回ってきた時、良寛さんはうっかりして殆ど飲んでしまい、途中で気が付いて吐き出し、茶碗を隣の人に回しました。隣の人は一瞬躊躇し南無阿弥陀仏と言って飲んだということです。

或いは良寛さんが鼻くそをほじって、右側の畳に置こうとしたところ、右にいた人が手を引っ張ったので、それでは左に置こうとしたところ、今度は左の人が手を引っ張りました。仕方がないからまたもとの鼻の中に戻したと言う話もあります。ユーモアのある人だったんですね。

良寛さんはお酒も大好きです。いろんなボランティア活動をしていたので、付き合いも広かったのでしょう。「ほろ酔いの足元かろし春の風」などという句もあります。

良寛の愛のテーマに戻りますが、良寛の愛の哲学を尤も象徴しているものに、常不軽菩薩があります。良寛はこの菩薩を非常に尊敬していました。この菩薩は法華経の中に出てくるのですが、決して人を軽んじないお坊さんなのです。人はどんな悪人でも皆菩薩になれると説教します。すると馬鹿なことをいうなと石をぶつけられ、棒で追いかけまわされる。しかし十メートル位逃げた後、必ずその人に向かって手を合わせてお辞儀をする。最近小学生がカッターナイフで切られて殺されると言うような不幸な事件が多くありますが、良寛は人の命の尊厳を説きたかったのです。誰でも仏になれるということは、誰にでも尊厳があるということ、人間とはそういう存在なのだと良寛は言っているのです。それが良寛の愛の哲学のベースにあるのです。良寛の愛は大変暖かいが反面厳しさも持っている。常不軽菩薩の教えに従って良寛は常に自分を鞭打ち自戒していました。良寛の自戒の言葉に「もし邪険の人、愚痴の人、暗鈍の人、長患いの人、孤独の人、不遇の人、六根不具の人を見るとき、まさにこの念をなすべし。何をもってかこれを救護せん。たとえ救護することあたわずとも、仮にも驕慢の心を起こすべからず。急ぎひびんの心を生ずべし。ひびんの心もし起こらざるときは、慙愧の心生じて、深く我が意を恨むべし」だれでも可哀相な人は助けようと思いますね。しかし良寛はそれだけではなく、どんな人を見ても馬鹿にしたり軽蔑したりしてはいけない。もしそういう気持ちが起きたら自分も恨めといっているんです。これが良寛の愛の暖かさの半面にある厳しさなのかなと思います。

書のことについてお話しますと、色々な人とのふれあいの中で生まれた書であることは事実ですね。良寛は書を書かされている。人々は何とかして良寛に書を書かせようとします。例えば出雲崎の漁師が或る時良寛に碁に勝ったら魚をあげるから、負けたら書を書けといって賭けをします。良寛は碁が好きですがあまり強くはない。この時も良寛は三番続けて負けてしまいました。良寛は同じ句「柿もぎの きんたま寒し 秋の風」を三枚書きました。

良寛は兎に角学び熱心でした。ある人が五合庵を訪ねたら机の上に紙が乗っていて、そこに字が読めないほどに真っ黒に書かれていました。或いは空中に字を書くとか。その学び熱心さの中に人生を瑞々しくさせているものがあります。

良寛は天保二年一月六日に亡くなるのですけれども、その前年の十二月二十五日に危篤の報が入り、弟の由之や貞信尼が駆けつけます。その時も周りに一杯書き散らしがあった。そんな重病の中でもずっと書を書いていたんですね。

良寛の人生の素晴らしさは瑞々しさにあると思っているのですが、その瑞々しさが書に活かされている。また書が良寛の瑞々しい人生を作っているんじゃないかと思います。

良寛は、最期は貞信尼などに看取られながら息を引き取ります。貞信尼は尼さんで良寛はお坊さんですから、生と死の問題から離れた世界に住む身なんだけれども、でもやはりこういう別れがあるのは辛いと言われたとき、良寛は臨終の床の上で「裏を見せ表を見せて散る紅葉」と詠います。死ぬ間際までそういう感性を持っている、それが書にもよく現れていると思います。

良寛はどうすれば書が上手くなるかと人に尋ねられた時、手元を見ぬこと、あまり自分の字の上手下手にこだわるなと答えています。

私なりの解釈ですが良寛の書は暖かさと厳しさの両面を持っていて、そこが非常な魅力なんじゃないかという感じがします。ひょっとすると書が求めているのはそんな所にあるのではないかとも思います。

良寛には春を待つ歌が多いですが、雪も結構好きな所があり、雪の歌にも良いものがあります。「淡雪の中に立ちたるみちあふち(三千大千世界)またその中に淡雪ぞ降る」空間はどんどん広がって行きますが、真青な空は無限の空間とは一寸感覚が違うんですね、そうではなくて白と黒の世界の中に又別の世界があるとなると不思議な感じがしますね。この歌の中に良寛を見る思いがします。

私は書もこんなだったら素晴らしいなあと思います、白と黒の空間世界の中にもう一つの世界があってどこまでも無限を感じさせる書、難しいですけれど。良寛はそのような書の精神をこの歌で現している様にも思われます。

そんなことを思いつつ今日はこの辺で終わらせていただきます。どうも有り難うございました。

                  (文責 植村 齊)

良 寛

良寛の故郷出雲崎は、北国街道に面した港町で、江戸まで97里あります。

昔は佐渡の金山を江戸へ運ぶ拠点として栄えましたが、今は寂れてほとんど人影を見ません。

良寛の生家は今はなく、跡地に良寛堂が建っていました。

良寛が剃髪したと伝えられる光照寺。相馬御風の碑が立っています。

芭蕉が佐渡に横たふ天の川と詠んだ日本海の荒波。生憎佐渡は見えませんでした。

良寛が長く住んでいた五合庵。国上寺の境内にあります。

国上寺の本堂。国上山の中腹にあります。

国上山。丸い穏やかな山でした。

国上寺にある良寛像

国上山の麓にある乙子神社脇の草庵。年をとって山道の往復がつらくなった良寛は、麓のこの庵に移りました。

草庵内部。良寛芸術の多くがここで生み出されました

良寛さんが最後に住んで、亡くなった島崎の木村家。

良寛の墓がある、隆泉寺の本堂。

良寛の墓。左は弟の由之墓。

良寛記念館にある村上三島の碑文。

隆泉寺にある良寛像

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