小野道風

(前のページに戻る)

 「ある時道風が池のほとりを散歩していると、蛙が柳の虫を取ろうとして幾度も飛び上るのを目にした。はじめは水面から少し離れるほどだったが、何度も繰り返し飛びついているうちに、ついに柳に飛びついてしまったのを見て、大いに感じるところがあり、発奮努力して学問にいそしみ、ついに大成されたということだ。」橘行精の「本朝能書伝」に載っている挿話で、小学唱歌や花札の絵にもなっている大変有名なお話です。

 小野道風は敏達天皇の末裔、小野篁の孫。父は太宰大弐葛絃で、寛平六年(八九四)愛知県春日井市で生まれたと伝えられ、現在生誕地と思われる場所に道風記念館が建っていますがここで生まれたという確証はなく、幼名や幼少期の事跡も伝わっておりません。

道風が生きた時代は平安中期、藤原氏全盛の時代で、小野氏の家柄では何もしなくても出世できるというわけにはいきません。兄の好古は藤原純友の乱で戦功をたてて参議に任ぜられていますが、多分道風は軍事や政治に興味も才能も無いことを自覚していて、書道で身を立てることを決意して猛勉強をしたに違いありません。

努力の甲斐あって早くから能書家として認められ、延喜二十年(九二〇)二七歳の時に「能書之撰」によって昇殿を許されています。このときのいきさつを、『麒麟抄』では次のように紹介しています。

「延喜の帝の時、右京大夫(葛絃)を召され、『汝の子が能書であることを耳にした。ここに一筆書かせよ』と言われ、団扇を一本賜った。道風はこの団扇に『我遣三聖化彼震旦 礼儀先開大小乗経』と書いて帝に献上した。帝はこれを御覧になった後、そのまま打ち捨てておかれた。道風は、首尾はいかがでしたかと父に問うたが、葛絃は特にお褒めの言葉は無かったと告げた。そこで道風は、父に乞うてその団扇を返していただき、裏に『私は晋の王羲之の筆跡を持っていて、それを学びました。恐れながら帝は筆芸に達しておいででしょうか』と書き、再び進上した。帝はこれを御覧になって大いに恥じ入り、河内国を給わって、昇殿を許された。」

翌年右兵衛少尉(右兵衛府の第三等官)、925年32歳で中務省の省内記(書記係)、939年に内蔵権助(内蔵寮次官)、942年右衛門佐(右衛門府次官)、947年次侍従(御前の雑事係)、958年65歳で木工頭(木工寮長官)と一応順調に官僚生活を終え、康保3年(966)73歳で没しています。しかしこの時の官位は正四位下内蔵頭ですから、三蹟として並称される藤原佐理(参議兵部卿)、藤原行成(権大納言)に比べて相対的に官位が低いことは否めません。(因みに大臣を公、大納言、中納言、参議と三位以上の朝臣を卿と呼び、公卿が上級貴族と考えられていました)。

 道風には戦功は勿論、行政官としての業績も伝えられておりません。逆に右衛門佐の時に罰金を科せられたとか、木工頭の時激職に堪えきれずに仕事の楽な内蔵権頭に移されたといった記録が残っています。つまるところ道風は、家柄にも頼らず、軍事や政治の実績もなく、書の道一筋で身を立て宮中に仕え世間に認められるようになったスペシャリストだったということが出来ます。そのような彼の努力精進を称え、後進の励みとするためにできたのが、柳に飛びつく蛙のエピソードだったと考えられないでしょうか。

道風は藤原伊衡を師として空海につながる晋唐風の書を学び、特に王羲之の影響を強く受けたといわれています。『麒麟抄』は「羲之の筆跡に肉を付けて道風はお書きになった。そうはいっても羲之が確立した筆法と変わるところは無い」といっており、また道風の代表作「屏風土代」は羲之の「快雪時晴帖」や唐太宗の「晋詞之銘碑」によく似ているとの指摘もあります。しかし道風の真骨頂は、晋唐の書風を更に発展させ、我国の文化風土に調和した和様の書風を創始したことにあります。道風の書の特徴は、

1) 楷行草書体を適宜混ぜて変化をもたせる。

2) 字形が端正で行を揃え形式を整えている。

3) 点画が豊かで潤いがあり優雅である。

4) 筆力筆勢を表に現わさず内包させている。

等であるといわれています。

しかし最大の特徴点は、起筆に明瞭な打込みが無く、収筆も波法や押さえで途切れることなく次の文字に連なり、起伏の豊かな線で文字を形作っていく点にあります。このために字形の印象がふっくらとして優美で、連綿が容易で仮名文字との整合が良く取れます。仮名文字は表音文字なので一字だけでは意味をなさず連綿が運命づけられているうえに、女手の性格上曲線の優美さが要求されます。従って道風が造形した漢字は仮名文字との相性が大変良く、漢字仮名混じり文に最適です。

この特徴点は、例えば行書に草書を交えた狂草体の「玉泉帖」を懐素の「自叙帖」などと比べるとよくわかります。「玉泉帖」の運筆は緩やかで、字形や字の配置にも心を配っていて、決して自由奔放に書き散らしたという感じはなく、線質はふくよかで潤いを含み、起筆は常に前の字を受けて柔らかく入り、収筆は次の字へのつながりを目指していて、仮名の連綿体への萌芽が随所に感じ取れます。これに比べ「自叙帖」の線ははるかに硬質で鋭く、たとえ文字を続け書きにしても起筆の打ちこみは明瞭で、独立した表意文字としての漢字の本質を崩していません。

 空海のかいた大極殿の額を見た道風が「大極殿ではなくて、火極殿に見える。筆勢が強すぎる」と言って笑ったと「源平盛衰記」や「太平記」に記されています。「大」の横画の起筆と終筆を強調すれば「火」に似てくるので、これは唐風の空海と和様の道風の字体の違いを端的に表した挿話です。勿論後世の作り話で、大極殿は道風の生まれる前の八七六年に焼失しているので、道風はこの額をみていません。                                     

 また『古今著聞集』にも「道風朝臣は弘法大師の書かれた額をみて非難して、美福門は田が大きすぎる、朱雀門は米雀門と読めると嘲笑ったために、やがて中風になって手が振るえ、字も満足に書けなくなった」とあります。まさか弘法大師ともあろう方が、自分の字を笑われたくらいで腹を立てて罰を当てるほど心が狭いとは考えられませんが、我国の書道の開祖ともいえる空海の書を敢えて批判する者がいるとしたら道風しかいない、それほど道風は世人に高く評価されていたということでありましょうか。道風が晩年に中風になって字が満足に書けなくなったというのは本当のようです。

「源氏物語」の中で「宇津保物語絵巻」について「絵は常則、手は道風なれば、今めかしうをかしげに、目もかがやくまでみゆ」といっています。平安時代には贈り物として名筆を送ることが流行していましたから、当時第一等の手書きとして尊崇を集めていた道風の書蹟は手本として人々に愛好され、その書風は広く流行したものと思われます。「御堂関白記」に藤原行成も藤原道長から道風の書蹟を借りたとあり、道風を学んで和様の書風を完成させました。行成の書風は世尊寺流として伝わり、近世まで我が国の書道の中心的存在であったことを考えれば、道風が我国の書道界に与えた影響は極めて大きかったといえます。