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1) 硬骨の人

 顔真卿は、その豪放な書風や安史の乱における奮戦振りなどからして、武将と思われがちですが、文官です。顔家は春秋戦国時代から続く学者の家系で、孔子の一番弟子顔回や『顔氏家訓』で知られる顔之推が一門から出ています。また真卿の曽祖父の顔勤礼や父の惟貞も学者・能書家として名を残しています。

 とは言いながら、真卿の生涯は筋を通すために捧げつくされたような所があり、大久保彦左衛顔負けの古武士の面影が有ります。正しいと思ったことは天子だろうと宰相だろうとかまわず直言し、そのため上役に疎まれて左遷されたことが生涯で七度に及んだというのですから、尋常一様の頑固者ではありません。

五原郡(内蒙古)の監察御史(地方官の非行を糾弾する役目)になったとき、無実の罪で獄舎に繋がれていた人達を解放しました。丁度その頃旱魃が続いていたのに雨が降ったので、人々は「御史雨」と言って喜びました。                                                   

河東朔方の試覆屯交兵使をしていたとき、鄭延という者がいて、母が死んで二十九年の間僧房の垣根に埋葬して正式の葬儀を行いませんでした。真卿はこれを見つけて天子に奏上し、三十年間の村八分に処しました。これを聞いた人々は大変驚き畏れました。

安史の乱で皇室の宗廟が破壊されました。復旧に際して真卿は「昔魯の成公は新宮に火災があったとき、三日間泣いたと伝えられています。陛下もどうか郊外に祭壇を築き東面して哭礼されますように」と奏上ましたが、聞き入れられませんでした。

 安史の乱も終わり、代宗が都に帰還することになりました。真卿は、古式に則ってまず五稜・九廟に参拝してから宮廷に戻られるようにと進言しました。しかし宰相の元載は「貴方の意見は正論だが、時宜に適さない」といって採用しませんでした。真卿は怒って「採用するかしないかは宰相の権限ですが、賊によって壊された朝廷の行事が貴方によって再度破壊されるのに耐えられません」と言い、元載は酷く感情を害しました。 

 元帥の広平王(後の代宗)が長安を訪問して帰る時、城門の外へ出てから馬に乗りましたが、随伴していた都虞侯の菅崇嗣は王より先に馬に乗って門を出ました。真卿は粛宗に奏上してこれを弾劾しました。しかし粛宗は「菅崇嗣は年を取っていて足が悪いので、門の内から馬に乗ることを許可しようと思う」と言って訴状を返却しました。

 憲部尚書(法務長官)だった時、吏部侍郎(吏部の次官)の崔?(サイイ)という者が酒に酔って出勤しました。真卿は彼を告発して右庶子に左遷しました。またこのようなことを取り締まる立場に有る諫議大夫の李何忌もこれを見過ごした廉で西平郡の司馬にとばしてしまいました。

 尚書右僕射(尚書省の次官)の郭英乂が、長安での行香(天子や皇后の忌日に行う法事)で宦官の魚朝恩に気兼ねして、従来のしきたりを破り、勝手な席順を決めました。真卿が是に抗議して書いた抗議文が有名な『争座位帖』です。

 元載は勢力を拡張するために私党を養っていましたが、それを代宗に告げ口されることを懼れて、帝に上奏する時は必ず宰相を通すようにと各部の長官に申し渡しました。このような不条理を見過ごす顔真卿ではありません。早速上奏文をしたためました。「今陛下は耳目を覆われようとしています。どうか見聞を広く得ようとして下さい。かつて玄宗皇帝の時宰相の李林甫は同じことを試み、上意は下達せず下情は上達せず、世の中は今のように衰頽してしまいました。事を奏する者は貴賎を問わずに受け入れて見聞を広めるのは、尭・舜の政治理想です。李林甫や楊国忠でさえもこのようなことは公然とはやりませんでした。陛下は早く決断をなされないとやがて孤立してしまいます。私は大臣に逆らう罪が重いことは良く承知していますが、陛下に背くことが出来ず懇願する次第です。」元載は真卿を誹謗して罪におとしいれ、地方官に左遷してしまいました。

 顔家の学問は礼を主体とした訓古の学で、真卿が守り通そうとした正義とは過去の聖賢によって確立された道です。従って言動がどうしても保守的になるのは止むを得ない事でしょう。      

常に己の信ずる所に従って、相手が皇帝であろうと宰相であろうと正しいと思ったことはあくまで主張し、貫き通そうとする真卿の姿勢は見事で、見ていて真に痛快なのですが、さてこれが現実の社会でどれだけ受け入れられるかとなると、一寸疑問です。

『三国志演義』では専ら敵役を演じている魏の曹操ですが、或る時行軍中に農家の麦畑を踏み荒らしたものは斬首するとの布告をだしました。ところが何に驚いたのか曹操の乗っていた馬が突然暴れだして麦畑に踏み込んでしまいます。この時曹操は少しもあわてず、咄嗟に自分の髪の毛を切って地面に投げ捨て「丞相麦を踏む。斬首すべきところなれど仮に髪を切ってこれにかえる」と触れさせます。ほっておけば布告が無視されて軍規が乱れますし、かと言って自分の首を切るわけにも行かない状況下では、最良の判断と言えるでしょう。仁徳の君主とはいえないにしても、曹操にはこのような臨機応変の才能が豊富で、三国志の中では最も魅力のある人物です。顔真卿なら自分の出した布告に従って、自分の首を切りかねませんね。

顔真卿が部下にいて、何事も筋論で押してきたとしたら、上司は余程の大人物でないと勤まらないでしょう。真卿が上司に疎まれてしばしば左遷されたというのも何となくわかるような気がします。

逆に上司が顔真卿だったとしたらどうでしょう。真卿が平原郡の太守をしていた時に安録山の乱が起こりました。そこで檄文を各地に発し、清河郡・博平郡の兵を合わせて、賊将の袁知泰が守っていた魏郡を攻めて大勝しました。(堂邑の戦い)しかし功を北海の太守賀蘭進明にゆずったため、中央政府に真卿の戦功は認められませんでした。彼個人としては、正義のために戦ったのであり恩賞にあずかるのが目的ではないと胸を張る所なのでしょうが、これでは部下の心を繋ぎ止めることは出来ません。命を懸けて戦った将士の多くは玄宗も安録山も良くは知りませんし、どちらが勝っても自分達の生活に直接係わりはありません。ただ太守の真卿に従って戦えば褒められて、勝てばいいことがあると思ったから一生懸命働いたのでしょう。苦労して勝ち取った勝利から何の利益も上らないとなれば、次からは戦いに身が入らなくなります。正義は立場が変われば変わってくるものですし、正義だけでは食べていけませんから。武将の資質が部下のために名誉と実益を分捕ってくる事に有るとすれば、顔真卿は確かに学者であって武将には向いていなかったと言えます。

 顔氏一門から学者・能書家は多く輩出しましたが、時代を動かすほどの政治家は出ていません。顔氏の家系は、実直にすぎて世渡りが下手な遺伝子だったのかもしれません。

             

2) 略 歴

 顔真卿、字は清臣。魯郡開国公に封ぜられたところから顔魯公とも言います。顔家はもともと山東省瑯邪臨沂(ロウヤリンギ)の名家で、王羲之とは同郷ということになりますが、中宗の景龍3年(709)長安で生まれました。若い時から学業・詩文・書道に優れ、開元22年(734)25歳の時に科挙を受けて優秀な成績で進士に合格しました。一族のホープであったわけです。監察御史・試覆屯交兵使・殿中侍御史・武部員外郎等を歴任しましたが、、天宝12年(753)42歳の時、宰相の楊国忠に疎まれて平原郡の太守に出されました。

 この時既に楊国忠と安録山の仲は険悪になっており、安録山の謀叛を予測した真卿は長雨にかこつけて城を整備し堀を浚え、戦士や食料を集めて密かに戦闘の準備を始めました。またこれをカモフラージするために水に舟を浮かべて酒を酌んだり詩を作ったりし、偵察に来た安録山の配下を安心させました。玄宗や楊国忠に真卿ほどの先見性と行動力があれば、安史の乱は未然に防げたのではなかろうかと思われます。

 果たして2年後の天宝14年(755)安録山は兵を起こし、河北一体を席捲しますが、平原郡だけは守りが固く、賊軍も手がつけられませんでした。玄宗は始めて安録山の乱を聞いた時「河北24郡に一人の忠臣もいないのか」と歎きますが、平原郡のことを聞いて「私は顔真卿がどんな顔形をしているのか知らないのだが、そんな忠臣がいたのだなあ」と喜びました。

正月に安録山は洛陽を陥れ大燕皇帝を称し、留守役の李トウ(りっしん偏に登)、御史中丞の廬奕、判官の蒋清の3人を殺して、その首を顔真卿の所へ送りつけました。私に従わないとこうなるぞという脅しです。真卿は人々が動揺するのを避けるため「私はこの3人を良く知っているが、これは偽首だ」と言って隠し、後日取り出して丁寧に埋葬しました。

 六月に玄宗は都の長安を捨てて蜀に逃れます。この逃避行の途中、馬嵬駅で楊貴妃が殺される場面は白楽天が詠う『長恨歌』のクライマックスです。七月に玄宗は退位し粛宗が即位します。

 真卿は安録山軍を相手に善戦しますが、衆寡敵せず終に平原郡を放棄し、至徳2年(757)に鳳翔で粛宗が開いていた仮朝廷に合流して、憲部尚書と御史大夫を授けられます。仮朝廷とはいえ中央政庁の大臣として復帰出来たわけです。この年、長安と洛陽も回復します。

翌年、綱紀粛正に関して宰相などと意見が合わず、真卿は蒲州刺史(蒲州の長官)に出されました。同年御史の唐旻に憎まれて饒州刺史に移されます。一時中央に戻り、刑部侍郎(法務省次官)になりますが、宦官の李輔国に嫌われて蓬州長史(蓬州の次官)となります。

宝永元年(762)には呼び戻されて戸部侍郎(大蔵省次官)、吏部侍郎(人事院次官)、などを歴任し、廣徳2年(764)には魯郡開国公に封ぜられますが、これは現地に赴任したのではなく、長安に居ながらの奉職です。しかし翌年宰相元載を攻撃して峡州別駕(峡州の補佐官)に貶され、吉州別駕、撫州刺史、湖州刺史とまたどさ廻りが続きます。

大暦12年(777)元載が失脚して中央に呼び戻され、刑部尚書(法務省長官)、ついで吏部尚書となり、礼儀使を兼務します。

 よくもこう頻繁に役職が変わったもので、追いかけるだけで眼が回りそうです。宦官や宰相に睨まれるたびに左遷されて地方に出されても、暫く地方で彼が失脚するのを待っていれば又戻って来られたのは、権力者の地位が安定せずしょっちゅう政権が交代したからでしょうし、皇帝の実権が殆どなくなっていたからでもありましょう。又中央政府が真卿を必要とした事もあったのでしょう。しかしこうも頻繁に役職が変わってはまともな政治などできなかったのではないかと心配されます。

 皇帝は粛宗から代宗、徳宗と替わり、この間に宰相も元載から崔祐甫、楊炎、廬杞と替わりました。顔真卿は楊炎にも嫌われて、吏部尚書を外され閑職の太子少師(皇太子のお守り役)にまわされます。

廬杞は洛陽で安録山に殺された御史中丞廬奕の子です。顔真卿74歳の時、廬杞は真卿を呼んで貴方を節度使(軍事・行政を司る地方長官)に任命しようと思うがどこがよいかと聞きました。節度使は地方勤務ですが権限は大きく見入りもよいので、廬杞としては好意を示したつもりだったのでしょうが、真卿は王羲之と違って都を離れたくはない、かといってまだ引退する気にもなれなかったので、廬杞に頼み込みます。「私は老齢になり地方への赴任には耐えられなくなりました。昔宰相の父上の首が平原郡に送られてきた時、その血に汚れた顔を私は布で拭わず、舌で舐め取って清めました。その功に免じて地方任官は許してもらえないでしょうか。」なんか物凄い話ですね。流石に廬杞もびっくりして席を下りて拝礼し、地方への任官はとりやめて太子大師に昇進させます。しかし、こんな爺さんが自分の身近に居て、事有るごとに「昔貴方の父上が」とやられたのではかなわないと思ったことでしょう。丁度その頃、李希烈が反乱を起こして汝州を陥落させ、洛陽に迫りました。その対応を徳宗から相談された廬杞は、これを説得するために真卿を使者として派遣することにしました。建中4年(783)正月、顔真卿75歳の時です。

広徳元年(763)に安史の乱は終焉し、一応平和が戻るのですが、この乱の前と後とでは全く様変りで、唐朝の全盛時代は終り、朝廷の権威は大きく後退します。朝廷の内部では宦官の力が強まって宰相をも凌ぐようになり、外部では節度使達が権力を持って軍閥化します。淮西の李希烈もそのような軍閥の一人で、天下都元帥・大尉・建興王と名乗って唐朝からの独立を宣言します。

唐朝はこれを鎮圧したくても、財政難で討伐軍を派遣することができません。従って、廬杞が真卿を派遣したのも、止むを得ない処置だったとも思われますが、説得されて「はい私が悪うございました」と反省して帰順を誓うくらいなら、最初から反乱など起こしません。当然命の危険を見越して廬杞は真卿を送り出したのでしょう。李勉は「大切な元老を失って朝廷の恥を後世に残すことになる」と上表してこれを留めようとしますが、間に合いませんでした。

果たして、李希烈にあった真卿は、武器を持った部下達に取囲まれて脅されます。しかし真卿は唐朝の功臣ですし、ここで真卿を殺して敢えて唐朝と事を構えることもないと判断した李希烈は、部下達を下げ、館に招じ入れました。

李希烈は折角やってきたこの有名人を何とか有効利用しようと考え、自分の地位を認めさせるような上表文を唐朝宛に書かせようとしたり、自分の国の宰相に任命しようとしたりしますが、真卿は断固として断り続けます。

李希烈は?州を大梁府と改めて皇帝の位につき、国を大楚、元号を武成と定めました。そして真卿に即位の儀式を尋ねますが、真卿は「昔は国礼を掌ったこともあったが、今は老いぼれて皆忘れてしまった」ととぼけました。真卿は汝州から蔡州に移されて龍興寺に幽閉され、貞元元年(785)李希烈のために殺されました。77歳でした。

翌年、李希烈の部下の陳仙奇は李希烈を殺して唐朝に帰順し、真卿の遺骸を長安に届けました。徳宗は政務を5日間休んで歎き悲しみ、司徒(司馬、司空と並ぶ三公のひとつ)の称号を贈り、文忠と謚しました。何を今更と言う気もします。真卿がこうなった責任の一半は徳宗にあるのですから。いくら皇帝の権威が低下したとはいえ、身を持って真卿を庇えば廬杞も反対できなかったでしょうに。

真卿は死後仙人になり、棺を開いてみたら中は空だったとも遺骸は生けるがごとくであったとも言われています。


3) 顔真卿の書

 隋唐代に隆盛を極めたのは、王羲之の流れを汲む典雅な宮廷風の書法でしたが、顔真卿が出て新しい技法の書を開発しました。これは後に「顔法」と呼ばれ、王羲之の書法と並んで「中国の二大書法」と言われるほどになりました。特に楷書は肉太で堂々としているので、賞状や看板の文字に使われたり、活字の明朝体の原典になったりと、後世に大きな影響を与えています。

和堂先生も、好んで顔法を使って賞状や認定書を書いておりましたが、大層立派で見ごたえの有るものでした。嘗て先生が松濤館流空手道の顧問をしていたとき、段位証書をもらった人の親御さんが書の心得のある人で、証書を見て大層感心して、一体これは誰が書いたものかと問い合わせてきたと言う話を、松濤館の関係者から聞いたことがあります。

「顔法」は俗に「蚕頭燕尾(サントウエンビ)」(起筆が蚕の頭、右の払いが燕の尾のような形をしている)と形容されております。楷書についてその特色をもう少し詳しく見ると、

イ 起筆に力が籠り、横画でははっきりした45度の線となり、縦画や点では蚕頭状の瘤の姿を取ります。

ロ 収筆も力一杯押さえています。充分押さえた後にふっと力を抜いて「はね」や「払い」を行っているため、燕尾の形となります。

ハ 相対する縦画は明確な「向勢」を取ります。単独の縦画も丁度ギリシャ神殿の柱のエンタシスのように真ん中が膨らんでいます。

ニ 「口」「月」「貝」など二つの縦画が対をなすときは、左は細く右は太く書かれています。これは楷書の一般的傾向で、「楷書は左を向いている」・・・これに対して隷書は左を太く右は細く書くため「隷書は右を向いている」と言われる由縁なのですが、「顔法」の楷書ではこれが顕著に現れています。

王羲之以来の伝統的な書法は、均整の取れた格調高い美しさを究極の目的とし、その書は典雅・優美で、腕や指や掌を自在に動かし、筆管や筆鋒を八方に傾けて線に変化をつけた華やかなものでした。洗練された技巧は、初唐に三大家といわれる欧陽詢、虞世南、?遂良が出て、頂点に達しました。頂点に達すれば後は下り坂があるばかりですから、ここから脱出し新境地に進むために、いろいろな試みがなされました。張旭や懐素の狂草なども、新しい表現を求めた試みの一つと考えられます。

このような状況の中で、顔真卿は常に筆管を立てて書く肘腕法を用いた新しい書法を編み出したのです。北宋の黄庭堅は「思うに二王(王羲之と王献之)以後、書法の極に至った者は、張長史(張旭)と魯公(顔真卿)の二人だ」と言っており、蘇軾も「顔魯公の書は、雄秀にして独出、古法を一変した」と言っております。

顔真卿はこの新しい書法を、北朝末期の「崗山磨崖」や隋の「曹子建碑」などを参考に、篆書の筆意を加えて創出したと言われています。用筆法についても復古調だったといえます。

 顔真卿が書いた『述張長史筆法十二意』の中で、真卿が34歳の頃、洛陽に張旭を尋ねて書法の要訣を伝授されたことが述べられています。張旭は「私は筆法を陸彦遠(虞世南の甥)から伝授された。彦遠が言うには、私はかつて筆法を?遂良に問うたところ、用筆はすべからく印印泥(印を封泥に押す)のようにすべきだと言われたが、長らくその意味がわからないで居た。或る時砂が平らな場所を見て字が書きたくなり、尖った棒で書いてみたところ、鋭い中にも優しさがあったので、それからは錐画砂(錐で砂に書く)に拠り、蔵鋒で書けば筆画が沈着することがわかった。そして常に紙背に透過するように心掛けるのが秘訣だ・・・とのことだった。」と教えました。「印印泥」といい、「錐画砂」といい、顔法で筆菅が常に直立していて、力瘤に溢れている様子が何となくわかる気がします。

 陸羽の『懐素伝』にも懐素と真卿が草書の筆法について語ったことが記されています。「草書の縦線の引き方について、懐素が師の??(オトウ)から古釵脚(古い簪の脚)のように書けと教えられていると言った所、真卿は屋漏痕(壁の雨漏れの痕)のようにしたらどうだと言ったので、懐素は深く感嘆した。」

古釵脚は簪の脚のようにすらりとした線のことでしょう。これに対して屋漏痕は雨漏れの痕のようなずるずるとした線なのでしょうか。昔から伝わる書法に対して、真卿も懐素も新しい表現法を模索していたことがわかります。

 顔真卿の書は、王羲之や初唐の三大家のように生前から一様に高い評価を得ていたわけではありません。旧来の常識を覆す個性的な書ですから、当時から賛否両論があったことでしょう。この書風は晩唐の柳公権などに引き継がれました。我国の書道の開祖と言われる空海も顔法を学んだと見られる節があり、「高野山灌頂記」などにその影響が現れています。しかし宋代の初めに編集された『淳化閣帖』には真卿の書は一点も収録されて居りませんし、五代南唐の李U(リイク)は「真卿の書には法は有るが佳い処はない。田舎者が手をこまねき、脚を並べてかしこまっているようだ」と酷評しています。

 真卿の書が高く評価されるようになったのは宋の中期になってからでした。まず欧陽脩が「顔公の尊厳・剛勁な人となりはその筆画によく現れている。その書は忠心烈士・道徳君子のようだ」と賞賛しました。儒者の価値観に基づき、書そのものよりも忠義・剛直な顔真卿の生き様に共感したようにもみえますが。次いで蘇軾が「顔公は古今の筆法を集成し、書の変化を極めた」「今までの筆法を変え、新意を出した。細い筋に骨が入っている様は、秋の鷹を見るようだ」と激賞し、黄庭堅も「どの作品を見ても王羲之以来の超逸絶塵の趣を得ている」と称揚しました。以後この評価が定着し、今日に及んでいます。

 尤も「顔法」の特徴が一番色濃く出ている楷書について、否定的な意見を持っている人は今日まで後を絶ちません。宋代の米?は「顔魯公の行書は教えてもよいが、楷書は俗品だ」といい、「顔真卿と柳公権の挑?(チョウテキ=跳ねたり蹴ったり)の法は後世の醜怪悪札を生み出した」と言っております。 清代の王?(オウジュ)も「魯公の書は、楷書は草書に及ばず、草書は稿に及ばない」と稿(争坐位帖、祭姪文稿、祭伯文稿などの行書に草書が混じった草稿文)を最上位に挙げ、楷書はあまり高く評価していません。

 現在の書学者の中にも「顔真卿の楷書は、初唐代の楷書とは比較にならない醜悪な書である」と言う人が居ます。まあ好き嫌いはあって当然ですが、自分の趣味に合わない書を「単調で泥臭く暫く見ていると辟易するほどの俗書である」と切り捨ててしまうのはどんなものですかね。

4) 顔真卿の書(続)

顔真卿の主な書蹟を書かれた年代順に並べると以下の通りです。

*「千福寺多宝塔碑」天宝11年(752)

楷書。尚書武部員外郎在中に長安で書いたもので真卿四十四歳の書です。碑は現在西安碑林第二室にあるそうです。龍興寺の僧楚金が長安の千福寺で法華経を読誦していると、目前に多宝塔が現れたことに感激して多宝塔を建てる請願を起こし、千福寺に建立したと言う由来を記したものです。真卿の比較的初期の作で、「顔法」はまだ完成の域には達しておらず、「向勢」も「燕尾」もそれほど目立ちません。従って強烈な個性はまだ出ていないので「顔法」愛好家には物足りない感じを受けますが、初唐の書に見られる端正で整然とした美しさがあり、誰でも抵抗無く受け入れられるため、顔法入門には最適の法帖といえます。

「東方朔画賛碑」天宝13年(754)

楷書。平原太守在任中に書きました。原碑は早くから傷み、重刻の碑が山東省陵県にあります。東方朔の祠堂に描かれていた画像を見て夏侯湛が書いた賛です。東方朔は漢の武帝に仕えた実在の学者ですが、奇行が多く、西王母の桃を盗食して長寿になったとの伝説があり、同名の謡曲にも西王母と共に登場します。俗に「鶴は千年、亀は万年、東方朔は九千年、浦島太郎は八千年」などと言います。

「祭姪文稿(サイテツブンコウ)」
乾元元年(758) 蒲州刺史在任中の書。安禄山が反乱を起こした時、真卿と共に従兄弟の杲卿と末子季明季明も義兵を起こしましたが、武運つたなく敗れて季明は戦死し、杲卿も捕らえられ禄山の元に送られて殺されました。禄山が死に、洛陽と長安を回復した年の翌年に季明を祭った時の文の草稿がこれです。「祭伯父文稿」「争坐位帖」と並んで三稿の一とされていますが、真蹟本がのこっているのはこれだけです。真卿の書の最高傑作との評価が一般的です。

 草書体を交えた行書で、楷書体のような目立った癖はありませんが、肉太の堂々とした線、筆管を垂直に立て紙面に透過させるような筆圧の変化等顔法の特徴はよく出ています。また甥の死を悼み事の成り行きを悲憤慷慨する文章や、文章を訂正、推敲する様子なども、文字と一体となって雰囲気を盛り上げています。

「祭伯文稿」乾元元年(758)行書

  饒州刺史に任ぜられ赴任する途中伯父の顔元孫の墓に参り、乱で殉死した一族のことを報告したときの祭文の草稿です。真卿三稿の一。真蹟本は明末に紛失して行方不明になっており、刻本のみが伝わっています。 祭姪文稿と同じ感じの行書体で、より綺麗にまとまっている半面、生き生きした迫力に不足しているようにも思われますが、墨蹟と刻本の違いもあるのでしょう。

「鮮于氏離堆記」宝応元年(762)楷書。

  蓬州長史に任ぜられ赴任の途中?州新政県(四川省)で書きました。この地の豪族鮮于忠道のために、忠道がこの地の離堆山の東面に開鑿した石堂の由来を書いたもので、文も真卿の撰です。磨崖刻。

「郭氏家廟碑」広徳2年(764)楷書

郭子儀将軍の父敬之の廟に建てたもので刑部尚書在任中に長安で書きました。碑陰には敬之の子、孫、曾孫の名と官職を記しています。

「争坐位文稿」広徳2年(764)行書

  尚書右僕射郭英乂に与えた書簡の草稿で、刑部尚書在任中に長安で書きました。長安での行香で百官が集集まった時、英乂が坐位(席次)を乱したのに抗議したものです。真蹟本は伝わっていませんが、宋代の刻石が西安碑林にあるそうです。真卿三稿の一。

  米?は真卿の楷書には批判的でしたが、この書については「篆籀の気があり顔書の中の第一だ」と褒めています。刻本からでも真卿の筆遣いは充分に窺い知ることが出来ます。

「麻姑仙壇記」大暦6年(771)楷書

撫州刺史在任中の書で、麻姑の事蹟と、麻姑得道の地撫州南城県麻姑山の仙壇について記しています。大字本、中字本、小字本が伝わっていますが、中字本は偽作です。頭燕尾の顔法の特徴ははっきり現れていますが、強烈な個性はまだ充分に出きっていません。横画の右肩上がりが少ないせいでしょうか、真四角な活字の原型との印象を受けます。   麻姑は伝説上の仙女で、後漢の蔡経が逢った時、東海が三度桑田に変わるのを見たというほどの高齢にも拘らず、外観は十八・九の美少女のようであったと言います。手の爪を鳥のように伸ばしていたので蔡経は、あれで背中を掻いてもらったらさぞ心地よかろうと考えました。背中を掻く竹製の道具を「孫の手」と言うのは「麻姑の手」が訛ったものだという説があります。

「大唐中興頌」大暦6年(771)楷書

撫州刺史離任後の書。湖南祁陽の渓の岸壁に刻されました。撰者は元結。唐が安禄山の乱を平定して長安、洛陽を取り戻し、帝業を復興し得た喜びを述べたものです。

*「宋m(ソウエイ)碑」大暦7年(772) 楷書。  撫州刺史離任後の書で、開元年間の名宰相宋mの墓側に建てた神道碑です。文も書も真卿の手になります。

「八関斎会報徳記」大暦7年 (772)

楷書。撫州刺史離任後の書。宋州刺史徐向らが河南節度使田神功の病気平癒を祈念して八関斎会(在家の佛教信者が一日一夜を限って八戒を受持し仏事に専念する特別修道会)を修した由来を記したものです。

「顔勤礼碑」大暦14年(779) 楷書

曽祖父顔勤礼のために、陝西省万年県の墓側に建てた神道碑で、選文、書共に真卿のものです。吏部尚書在任中に長安で書きました。元明以後土中に埋没したものが、民国11年(1922)に再発見されました。

筆圧の変化が著しく、気力が充実していて、顔法の楷書の完成された姿と言えます。一字毎に文字のバランスを取ることにはあまり拘らず、筆の勢いの赴くままに力一杯書いており、痛快極まりない文字であると同時に、波長の合わない人に「醜怪悪札」と映る危険性を内包しています。

「顔氏家廟碑」建中元年(780)楷書

吏部尚書在任中長安で書きました。真卿が父の惟貞(イテイ)のために廟を建て、碑を作って家の履歴を述べたもので、この碑のお陰で顔氏の家系の履歴が後世に伝わりました。現在西安碑林の第三室にあるそうです。

 「顔勤礼碑」の翌年に書かれたもので、両者はよく似ています。筆力のある雄大な文字で、顔真卿の楷書の代表作の一つといえます。

「建中告身帖」建中元年(780)楷書

顔真卿に太子少師を授けた告身(辞令)で、本来は尚書省の書記官が書いて手渡されるのですが、これは授けられる側の真卿が書いたものです。根岸の書道博物館に現存しています。

 同年に書かれた「顔氏家廟碑」と同系統の字ですが、墨蹟である分、こちらの方が「蚕頭燕尾」の顔法の特徴が明瞭に見て取れます。

顔真卿