「陳の武帝の時、広州史だった欧陽こつ(糸偏に乞)は、妻を伴って南方へ遠征し、諸部族を平定して険阻な山地に入った。その土地の古老が言うには、「このあたりには、綺麗な若い女を攫う神がおります。ご用心なさい。」欧陽こつは驚いて、妻を奥の部屋に隠し、護衛をつけて見張らせた。しかし、夜に強い風が吹き、翌朝妻の姿は消えていた。彼は大いに怒り、部下の軍勢を動員して探索にあたった。数ヶ月後、茂みの中から妻の履物を発見し、更に探索を続けた結果、切り立った山の上にある岩窟に行き着いた。その前庭には美しい植え込みが茂り、珍しい花が咲き乱れる不思議な場所で、多くの女達が扉を出入りしていた。扉を開けて岩窟の中に入ると、大きな広間がいくつもあり、その中の一つに置かれた寝台に欧陽こつの妻は寝ていた。女達の話では、ここは不思議な者の住まいで、彼女等も攫われてここにやって来たが、その者は広大な神通力を持っていて、武器を持って立ち向かってもとてもかなわないだろうとのことであった。「ただ彼は酒好きで、酔っ払うと力を見せびらかしたがり、私達に絹の紐で手足を縛らせて、これを切って見せます。絹の中に麻を混ぜておけば切れないでしょう。体中鉄のように硬くて武器を通しませんが、臍の下に急所があります。」と秘策を授けた。欧陽こつは大層喜んで、酒と麻糸を用意して再度山に登り、部下と共に岩陰に身を潜めた。やがて身の丈六尺に余る大白猿が現れ、岩屋に入って大いに酒を飲み、酔っ払って女達に手足を縛らせた。欧陽こつとその部下が武器を持って現れると、身をもがいたが紐は切れなかった。体は硬くて武器を寄せ付けなかったが、臍の下を剣で刺すと血が泉のように流れ出した。白猿は、「お前の妻は身籠っているが、その子は将来偉大な君主にめぐり会ってきっと一族を栄えさすだろうから、どうか殺さないでくれ。」と言い残して息を引き取った。 欧陽こつの妻は一年後に男の子を産み落としたが、その子は白猿に容貌が似ていた。果たして成人してから、文章と能書で名を知られるようになった。これが欧陽詢である。」

 この話は、唐代の「補江総白猿伝」という小説に載っております。欧陽詢の才能が優れているのをやっかみ、容貌が醜かったのをからかって、誰かが作り出したものと思われます。『旧唐書』にも、「容貌は大変醜い小男だったが聡明さは際立っていた」とありますから、彼の男振りと聡明さは当時から有名だったようです。文徳皇后の葬儀に喪服をつけて列席した欧陽詢を見て人々はこれを指差して密かに笑ったが、中に許敬宗という者が大いに笑ったために左遷されたという話や、唐の太宗の酒宴の席で、長孫無忌という者が、欧陽詢が猿に似ていると言う詩を作ってからかったところ、長孫無忌が北方の蛮族の身なりをしていることをあてこすった詩でやり返したという話も伝わっております。

 父の欧陽こつは、陳の武帝への反逆の廉で、欧陽詢が十二歳の時に処刑されています。欧陽詢はまだ幼かったために難を免れ、父の友人の江総に引き取られて育てられました。詢少年は何しろ謀反人の息子ですから、周りに気を遣い、世間の目を気にしながらひっそりと暮らしていたことでしょう。代が変わり、李淵が隋を倒して唐朝を建てたとき、幼馴染だった欧陽詢は抜擢されて給事中(帝王の近侍で政庁の監察官)の要職に就きました。彼の才能からすれば当然の人事であったとしても、宮中での羨望とやっかみは大きかったでしょう。その上猿に似た醜男でチビときているのですから、いじめやからかいの恰好の標的にされたであろう事は想像に難くありません。

 欧陽詢は、天賦の才能に加えて、努力家であり、非常に研究熱心でもありました。『新唐書』に「かつて索靖が書いた碑を見に行った。見終わって行きかけたがまた戻って立ち尽くし見入った。疲れてきたので敷物を敷いて眺め、とうとうそこで野宿してしまった。三日後にようやく立ち去ることができた」とあります。欧陽詢が書を学んだ時代は、王羲之に代表される、南朝の貴族風の穏やかな書風が流行していたのですが、彼はこれに飽き足らず、索靖や北朝の碑文の厳しい書風を取り入れ、独自の書風を確立しました。『新唐書』によれば「欧陽詢は初め王羲之の書風を模倣していたが、やがて強さ鋭さではこれを凌駕するようになった。そこで自分の書風を独自のものとした」。 南朝風の貴族趣味を脱皮し、張懐?が『書断』の中で「武器庫の武器のようだ」と評した欧陽詢の書風です。その正確無比で、一分の隙も無い書体に接するとき、容貌に対するコンプレックスを押し隠し、今に実力で見返してやると胸を張って生きていた彼の心意気が如実に感じ取れると思うのですが、如何でしょうか。

 『書断』には「欧陽詢は八体(古文、大篆、小篆、隷書、章草、飛白、楷書、行書)尽くに巧みであったが特に篆書に優れていた」と記されていますが、篆書や飛白の書蹟は伝わっておらず、現在欧陽詢の書蹟を代表するのは「九成宮醴泉銘」「化度寺碑」といった碑文に刻された楷書です。また「仲尼夢奠帖」に代表される行書も有名です。

 しかしこれらの書蹟にとどまらず「芸文類聚」百巻を撰したほか「麟角」「用筆論」「八訣」等を著わしており、欧陽詢が単なる能書家でなく、学問文芸でも大いに活躍していたことがわかります。太宗の貞観初年(六二八)に太子率更令(皇太子養育係)に任ぜられ、弘文館学士(皇族高官子弟の学校の教授)も兼ねて、虞世南と共に書法の教授を担当しました。貞観十四年(六四一)八十五歳で没しています。

欧陽詢の楷書は、いずれも引き締まった線と整った字画を特徴としていますが、中でも「化度寺碑」と「九成宮醴泉銘」は傑出しており「楷法の極則」と讃えられています。この両者は古来多くの人が優劣を論じており、かつては化度寺碑が醴泉銘に勝るとする論が多かったのですが、現在では醴泉銘を欧陽詢の楷書の最も勝れたものとし、虞世南の「孔子廟堂碑」?遂良の「雁塔聖教序」と並んで、唐代のみならず全時代を通じて楷書の碑文 の代表とする風が一般的です。

 「九成宮醴泉銘」は貞観六年(六三二)太宗の離宮に清泉が湧き出たのを記念し、合せて太宗の徳を讃えた記念碑で、欧陽詢七十六歳の時の書です。字形は縦長に構成され、縦画は垂直で主縦画は塔か柱のように上下に突き出ています。横画も全て直線で、右肩上がり等間隔に配置され、一見平行線に見えますが「壽」などを見ると左手に交点(バニシングポイント)を有していることがわかります。起筆は明確ですが極端に力を入れて打ち込むことはせず、そのまま力を抜かずに運筆しています。このため線質は非常に鋭く、収筆はきっちり押えるかはねるかして曖昧さがありません。点、ハネ、ハライは三角形を形成し、相対する二本の垂直線はかすかに背勢を帯びていますが殆んど目立ちません。これらは全ての欧陽詢の楷書に共通する特徴点ですが、醴泉銘では特に几帳面に実施されていて例外がありません。正確でありながら活字のような単調さに陥ることなく、各字形を見る毎に驚きと納得の連続であって「楷法の極則」と言われるのも真に尤もなこととうなずけます。

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欧陽詢