王羲之

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1) 王羲之に係わる逸話

 王羲之は鵞鳥が大好きでした。といっても北京ダックにして食べてしまうのではなく、庭の池で飼って、その姿と鳴き声を観賞するのです。しかし当時でもこれを誤解した人が居ました。羲之が会稽郡の太守をしていた頃、一人暮らしのお婆さんが鳴き声の良い鵞鳥を飼っているという噂を聞きました。出来れば買い求めたいものだと思い、友人と一緒に車に乗って見に行くことにしました。お婆さんは、郡の太守様が鵞鳥をご所望であると聞き、気を利かせてこの鵞鳥を料理してお待ちしておりました。やってきた羲之はこれを見て大変がっかりし、一日中溜め息をついていました。

 こんなこともありました。となりの山陰県に良い鵞鳥を飼っている道士が居て、羲之はそれを見に行き大層気に入りました。是非譲って欲しいと頼んだ所、道士は「老子の道徳経を書写して下さるなら、これらの鵞鳥を全て差し上げましょう」と答えました。羲之は大喜びで書写し、引き換えに鵞鳥を籠に入れて持ち帰り、大いに楽しんだということです。

このことから、換鵞とは書道の事を指し、鵞鳥は書道のシンボル的存在になっています。

 羲之には、興に乗ると手近な物に字を書いてしまう習性がありました。嘗て門人の家に行き、栢(カヤ)の木の机の表面が非常に滑らかなのを見てそれに字を書きましたが、門人の父親がこの落書きを見つけて削ってしまいました。後でこれに気付いた門人は、何日もふさぎ込んでいたとつたえられています。

 また或る時、一人の老婆が、六角の竹扇を売っているのに出会い、その扇に字を書きました。老婆のご機嫌が良くないのを見て「これは王右軍の書だといえば、百銭で売れるよ」といいました。果たしてその通りになったので、老婆はまた扇を持って羲之のところへやってきて、再度字を書いてくれと頼みましたが、笑っただけで頼みは聞いてやりませんでした。

 羲之が所用で都へ行ったとき、出発に際して壁に字を書きました。息子の王献之はいたずら心をおこして、こっそり拭き取り、同じ場所に同じ字を書いて、我ながらうまく書けたと思っていました。都から帰ってきた羲之はこれを見て「あの時はよほど酔っていたと見える」とつぶやきました。これを聞いた献之は内心大いに恥じ入ったということです。

晋の皇帝が天地を祭った時、王羲之が書いた祝版(祈願文を書いた板)を更新しようとして、大工に削らせましたが、文字が板の中に入っていて、いくら削っても文字が消えず、終に削ること三分に及んだということです。ここから書道のことを入木道というようになりました。

 羲之が若い頃、酒屋で酒を買い、酒代の代わりに板壁に「金」という字を書きました。酒屋の主はその文字を薄く何枚にも削って売ったところ、莫大な値になり、お陰で酒屋は裕福になりました。(これは『麒麟抄』に載っていて、入木の挿話から連想して誰かが考え付いたお話でしょうが、いくらなんでも相当にうそっぽい話ですね。)

 官界を引退した後、羲之は友人達と狩や釣をしたり、旅行をしたりして、悠々自適の生活を送りました。或る時友人の謝安と冶城に登り、遠くを眺めながらいいました。「夏王の禹は手足に豆やたこが出来るほど政務に精を出したというし、周の文王は忙しくて食事をするのはいつも夜遅くなってからだったと聞いている。それなのに今時の官僚達ときたら清談にうつつを抜かし、役にも立たない文章を弄んで、務めを疎かにしているようだ。」謝安が答えて言うには「しかし秦は商鞅が無駄を省いて効率一点張りの政策を採りましたが、たった二代で滅んでしまいましたよ。必ずしも清談がいけないということでもないでしょう。」

 

 これらの逸話からどのような王羲之像が浮かび上がってくるでしょうか。

まず食べるには困らない貴族で、中央政界とも?がりはありますが、国を背負って立つような高官ではなく、庶民とも気楽につきあっている田舎の政治家というところでしょうか。そうは言っても政治を横に置いて、文学や趣味のみにはげむといった風ではなく、真面目に民衆のために取り組んでいたと推察されます。自分の書には相当の自信を持っており、また当時既に世間からも高い評価を与えられていた様子がうかがわれます。

2) 王羲之の略歴

 王羲之、字は逸少。晋の懐帝の永嘉元年(307)山東省瑯邪で生まれました。(303年生まれとの説もあります)王一族は山東省の瑯邪地方の名家で、父は淮南太守の王曠、伯父の王導は東晋の元勲として朝廷内に大きな勢力を持っていました。羲之は王承、王悦と共に王氏の三少と謳われ若い頃から才能を認められていました。18歳頃、大尉(軍の長官)?鑒の娘?と結婚して7人の男子をもうけています。大尉は丞相(宰相)、司空(監察官)と並び三公と呼ばれる要職で、人望も大変厚かった?鑒は、娘の婿を王導の一族から迎えたいと思い使者を派遣しました。使者が帰ってきて報告して言うには「王氏の若者たちは皆立派ですが、使いのものが来たと聞いてみんな格好をつけていました。中に一人だけ腹をまるだしにして食事をしていて何も聞いていないような様子をしているのがいました。」?鑒はこれを聞いて「それに決めよう」といいました。これが王羲之だったということです。

成帝の咸和元年(326)秘書郎として初めて朝廷に出仕し、会稽王友、臨川太守を歴任、咸和九年(334)征西将軍の?亮に請われてその参軍(第二副官)となり、後に長史(第一副官)になっています。?亮が死ぬとき、羲之を清貴で見識のある人物であると推薦したので、咸康六年(340)寧遠将軍、江州刺史(江州知事)に昇進しました。羲之はこのように若い頃から評判がよかったので、宮中では彼を召しだして、侍中(天子の秘書役)や吏部尚書(人事部長官)、などの官職を授けようとしましたが受けませんでした。

?亮の下で働いていたとき同僚だった殷浩が朝廷の高官をしていて羲之担ぎ出しに奔走し、羲之も断りきれずに永和4年(348)護軍将軍(近衛師団長)への就任を承諾し中央政界入りします。しかしそれでも地方勤務を願い続け、永和七年(351)右軍将軍、会稽内史に任ぜられて会稽郡に赴任します。右軍将軍は皇帝の三軍のひとつを預かる将軍で中央政府の高官に属しますがこれは名誉職で、本職は会稽内史(会稽郡長官)です。地方官でありながら中央政府の役職も兼務するということは、それだけ名誉なことです。

会稽地方は風光明媚なところで、羲之は大層気に入り、一生をここで過ごすつもりになりました。それで地方行政に大いに努力したのですが、上役の揚州刺史王述との間に悶着を起こし、永和11年(355)に官を辞します。王述は瑯邪の王氏とは別系列に属しています。若い時から名声が高く、羲之も「彼は中央政府の大臣になる人材だ」と評価していたのですが、それだけにお互い強烈な対抗意識があったものとみえ、二人の悶着の種は多少大人気ない意地の張り合いが原因でした。王述は羲之の前に会稽郡の太守を勤めていた前任者なのですが、母が死んだので太守を辞め喪に服していました。後任として赴任してきた羲之は、一度だけ儀礼的に弔問しただけで二度と訪れませんでした。王述は何年もの間再訪を心待ちにしていたので、このことを深く恨みに思うようになり、喪が明けて揚州刺史になったとき、逆に王羲之の所に立ち寄りませんでした。会稽郡は揚州に所属しており、揚州刺史はその長官ですから、王述は羲之の上役になってしまったのです。あわてた王羲之は、中央政府に掛け合って、会稽郡を揚州から越州に移してくれるように頼み込みましたが、これは聞き入れられるはずもありません。王述は会稽郡の検察を厳しく執り行い、郡の担当者は疲れ果ててしまいました。これに嫌気が差した王羲之は、遂に病気を理由に引退してしまいます。まるで子供の喧嘩ですね。

引退後も引続き会稽に住み続け、狩、釣、旅行などをしながら楽しみのうちに暮らし、興寧3年(365)58歳で没しています。(没年も361年という説と二通りあります。)

 このように略歴だけ並べると、名門貴族が順調に官僚生活を全うして、最後は悠々自適の隠遁生活で締めくくるまことにうらやましい境遇と思われましょうが、実はそれほど平穏無事な生涯でもなかったようです。先ず彼の生きた時代は、中国史上でも稀に見る動乱の時代でした。

3) 時代背景と王羲之の立場 

 魏の曹操の子曹は、黄初元年(220)魏の初代皇帝になりました。彼は相続争いで国が乱れる事を恐れて、自分以外の曹氏一族が力を持つ事を許しませんでした。結果は裏目に出て、宰相の司馬仲達とその一族にやがて実権を奪われてしまいます。咸煕2年(265)司馬仲達の孫に当たる司馬炎が魏に代わって晋朝を起こし、呉を滅ぼして中国統一を果たします。

司馬氏は曹氏の教訓を生かして、司馬一族を各地の王に任命して力をつけさせ、晋朝を補佐させようとしたのですが、これもまたうまくいかなかったのですから、権力の維持とはむつかしいものです。今度は帝位継承を巡って、各地の王がお家騒動を始めたのです。8人の王が入れ替わりかかわったこの内乱は「8王の乱」と呼ばれ、15年も続いた後、光元年(306)に終焉するのですが、王達が軍事力増強のため中国周辺に住む異民族に応援を求めたため、彼らの侵入を招いてしまいます。「永嘉の乱」と呼ばれるこの戦乱は「乱」といった生易しいものではなく、中国文明の中心地黄河流域が、その後百三十年もの間統一王朝が出来ず、五つの民族により16の国家が興亡を繰り返したところから「五胡十六国」と呼ばれる時代の始まりとなるのです。永嘉5年(311)晋の都洛陽は匈奴に攻め滅ぼされ、5年後の建興4年(316)には、長安も陥落して晋王朝は滅びます。

王羲之は8王の乱が終わった翌年に生まれています。王一族はもともと瑯邪地方に古くから根を張っていた豪族で、王羲之の伯父にあたる王導が一族を纏めておりました。王導は瑯邪王の司馬が「8王の乱」に巻き込まれるのを防ぐため、都から脱出させて瑯邪に招じ入れ、更に黄河流域が異民族に支配されるのを見越して、揚子江流域の建業(現在の南京)に本拠地を移しました。瑯邪から建業までは直線距離にして五百キロほど、東京・大阪間くらいに当たります。司馬睿を擁して王一族が西部劇の幌馬車隊よろしく馬車を連ねて都落ちした中に、未だ幼かった王羲之も混じっていた事になります。

317年司馬睿は東晋王朝を興して元号を建武と定め、翌年帝位に就いて太興と改めました。因みに司馬睿は諡(おくりな)を元帝といいます。この新王朝の成立は王導の先見性と行動力に負うところ大ですから、王朝内での王一族の勢力は絶大なものとなり、自然の成り行きとしてこれに反撥する勢力が現れます。元帝の側近達が王氏の勢力排除に乗り出したのです。元帝自身も王氏の強大さを煩わしく思い、かれらを密かに応援したことでしょう。王導は老練な政治家ですから、このような動きに動じることはありませんでしたが、王導の従兄弟にあたる荊州刺史王敦は遥かに血の気が多く、この動きに腹を立てて君側の奸を除くと称して朝廷に叛旗を翻します。帝王の側近の政治的謀略に地方の将軍が反撥するというパターンは、帝室の後継者争いと並ぶ内乱の原因の定番みたいなもので、中国史ではたびたび繰り返されます。この反乱は一応成功し、王敦は建業を陥れて側近を排除し、元帝の退位を迫ります。もし王導もこれに加担していたなら、東晋王朝は僅か一代で終わっていたでしょうが、自分が育て上げた王朝を潰すに忍びなかった王導は朝廷側につきます。このため内乱は長期化し、やがて当事者の王敦も元帝も共に病死して、自然消滅してしまいます。

王敦が同志を集めて内乱を計画していたとき、偶々部屋の隅に未だ若い王羲之が寝ていました。極秘の計画を知ってしまっては命の保障はありません。幼い頃から癲癇の持病があった羲之は、咄嗟に廻りを汚して発作が起こった振りをし、難を免れたということです。

王敦の後兵馬の権を握ったのは、王羲之を引き立ててくれた征西将軍の?亮です。?亮は王導とそりが合わず、軍事力を背景に王導排斥を画策しますが、羲之の舅の?鑒の反対にあって断念します。さらに代が変わり、安西将軍、荊州刺史となった桓温が兵を率いて蜀(四川省)に遠征し、これを東晋の版図に加えたところから一躍人気を獲得します。この時帝の穆帝は未だ幼く、祖父の弟に当たる会稽王司馬cが宰相として国政を補佐していましたが、桓温の対抗勢力とするため、殷浩を揚州刺史に任命します。殷浩は羲之が?亮の下で働いていた時の同僚で、羲之の手腕を非常に高く買っていたので、何とか自分の幕下に加えて桓温に対抗しようと思い、何度も誘いの手紙を出します。これに対し羲之は何度も断ったのですがついに断りきれずに、護軍将軍として中央政府に入ります。

当時の東晋王朝は言ってみれば亡命政権です。東晋というのは後の人達が付けた名称であって、彼ら自身はあくまで晋王朝を引き継いだと思っており、偶々現在は南に逃れてきているが、本来その主権は中国全土に及んでいるというのが彼等の主張です。従って北方に居座る異民族を征伐して主権を回復する「北伐」は、東晋王朝の国是みたいなものです。勿論これは「たてまえ」であって、現実にそれだけの力はないわけですが、北伐を敢行するジェスチャーを見せる事は、民衆の支持を得、宮廷内で勢力を伸張するために非常に有効な手段であるわけです。そこで桓温が北伐を願い出ましたが、司馬cはこれを許可せず、殷浩に北伐を命じます。

建国間もない東晋王朝にとって先ずやらなければならない事は、民政に注力して国力を充実させることであって、自分たちの勢力争いのために軍事行動を起こすなどは愚の骨頂といえます。そこで王羲之は殷浩に手紙を書き、北伐は諦めて、桓温と力を合わせて国政に当たる様に忠告します。更に首を覚悟で黒幕の司馬cにも手紙を書き、北伐を止めて殷浩を呼び戻すように諫言しますが聞き入れられません。殷浩は、官僚としては優秀でも軍事的才能はなかったとみえて、軍隊を編成して北に攻め上りますがあっさり敗退します。羲之は、面子にこだわる殷浩に再度手紙を送ってその愚かしさを説きますが、殷浩は北伐に再チャレンジし、決定的な敗北を喫して政界を追放されてしまいます。さすがに司馬cも桓温の北伐の願いを許可せざるを得ず、これは一応の成功を見せて桓温は一時長安に迫り、洛陽を陥れるという成果を挙げました。すぐに奪回されてしまうのですが、桓温の目的は達せられて彼は大いに人気を博し、やがて帝位をうかがうほどの大軍閥になります。

4) 王羲之の思想と行動

このように王羲之は少年時代から晩年に至るまで、朝廷内の陰謀や勢力争いに遭遇して来ました。しかも主役を演じたのが彼の伯父や舅や上司や同僚といった身近な人達であり、政争の愚かしさ空しさ自らの無力さを、骨身にしみて痛感していたに相違ありません。政治を志す人なら誰でも、地方よりは中央を目指すのが普通でしょうが、王羲之は終始中央政界入りを拒否し続けました。一時親友の殷浩の懇望もだしがたく、護軍将軍の職につきますが、北伐にたいする意見が聞き入れられないと見るや直ちに地方への転出を願い出ています。

といっても彼は、世俗を離れて地方でのんびり暮らそうとしていたわけではなく、地方政治に真剣に取り組みます。会稽地方が飢饉に見舞われると、郡の倉庫を開いて郡民を救済し、賦役が重過ぎるといってしばしば朝廷に抗議し、人々が食べる物もなく困っているから暫くは酒を作る事を止めるべきだと上奏したりしています。また大臣をしていた友人の謝尚に手紙を出して、中央官庁から出てくる文書は煩雑すぎるので簡素化すること、穀物倉の監督官が官米を私有しているのは厳罰に処すること、罪の軽い罪人は許して兵士や職人に引き当てることなどを提案しています。大変前向きな的を射た意見です。

しかし官を辞した時は流石にほっとしたとみえて、祖先の墓前で二度と仕官をする事はないと誓いました。友人の謝万に「昔から俗世間に別れを告げようと思った者は、狂人を装ったり、敢えて言行を汚したりしたものですが、私は居ながらにして俗世を逃れ、かねてからの懐いを遂げることが出来ました。これは天からの賜物ではないでしょうか。・・・子供たちを引き連れ孫たちを抱きかかえてはあたりを眺め回しております。何か旨い物があればみんなで分け合って、この目前を愉しんでおります」と手紙を書いています。そして謝安、孫綽、許詢といった地方の名士との交友を深め、釣りや狩や旅行をして過ごし、「私は終に楽しみのうちに死ぬだろう」と嘆じています。

有名な「蘭亭序」のなかで羲之は「死と生を同一視することは虚誕であり、長寿も夭折も同じだと考えるのは妄作である。後世の人々が我々を見るのは、今の我々が古人を見るのと同じだろう。悲しい事だ」と言っています。彼の生死観の中に来世はなく、現在を如何に充実して生きるかが全てでした。もともと中国では、3月3日に禊(みそぎ=川のほとりで厄を払い、汚れを除く行事)を行う風習がありました。これがやがて貴族たちの間で、清流のほとりで酒盛りをし、のどかな一日を楽しむ行事に発展いたしました。これに倣って王羲之も蘭亭に名士、友人41人を招き、「流觴曲水」の雅宴を催し、出来た詩集の序文を羲之が書いたのが「蘭亭序」なのですが、最後を「列席した人達の名を書き連ね、彼等の詩を記す。時代は変わり事情は異なっても、思いを興させる種となる物は一つである。後世この文を見る人も同じ感慨を抱くに違いない」と結んでいます。羲之にとって書や詩文こそが永遠不滅の物だったのでしょう。

王氏は代々五斗米道という道家の信者で、羲之も許邁という道士と付き合いが深く、彼自身薬石について深い知識がありました。都の友人から謝安は元気にしているかと問い合わせがあった時「あの男は、薬をもらいに来る時以外、私の所に顔を出さない」と返事を書いたりしています。その知識を生かして晩年は服食養生に努めたのですが、食事が進まず脚が痛んで仕方がないなどと弱音を吐いています。官を辞してから十年後に没しました。

さてこれは王羲之が没した後のお話です。北伐の仕掛け人司馬cはその後帝位につき、簡文帝と呼ばれるのですが、今や大軍閥に成長した桓温から激しく譲位を迫られます。簡文帝も殆どその気になりかけたのですが、敢然とこれを撥ね付け帝室を守りぬいたのが、羲之の友人の謝安と、羲之の喧嘩相手王述の息子王坦之だったのです。墓の中で王羲之はどんな感慨を抱いた事でしょうか。

5) 王羲之と書

王羲之は、「書聖」として古来より尊崇を集めております。張懐?は『書断』の中で、唐以前の能書家97人について論じ、ランク付けをしていますが、王羲之のことは「草書・隷書・八分・飛白・章草・行書の各体にわたって精妙で自ら一家の書法を完成した。」と述べ、鐘?、張芝、王献之等と共に最上位の神品に置いています。孫過庭は『書譜』でこの四人の優劣を論じて「羲之は鐘?の楷書、張芝の草書に及ばないが、各書体に精通していて、総合してみると優れている。献之は、楷書はほぼ父の書法を伝えているが、完全に父の業績を継承する所までいっていない。」として、王羲之を一位に置いています。

 我国でも、奈良、平安時代を通じて、王羲之を祖とする晋唐風の書体が隆盛を極めたため、王羲之は能書家の代表とされました。

南朝宋時代の『羊欣筆陳図』によると、「王羲之は7歳で既に書を善くし、12歳の時父の王曠秘蔵の『前代の筆説』を読んだ。父が大きくなってから授けようと言ったが、「大きくなってからでは私の幼時の美点が無くなってしまいます」と訴えたので授けた。羲之は一ヶ月も経たないうちに上達し、その書をみた衛夫人は「この子は必ず私以上の存在になります」と言って涙を流した」とあります。しかし王曠は羲之が七歳の時に異民族との戦いで没していますから、この話はまゆつばです。王羲之の書道の師は衛夫人で、夫人の秘蔵する「用筆訣」を見て書が上達したとも伝えられています。道士から譲ってもらった鵞鳥の頸が前後左右にねじれる様を見て書法を悟ったなどと言う言い伝えもあります。

しかし梁の陶弘景が「羲之の優れた作は、永和十年代のもので、若い頃の書はさほどではない」と言っているように、羲之は若い時から天才的に書がうまかったというより、長い間非常な修練を重ねた結果、神品と言われるほどの域に達したものと考えられます。初期の頃の手紙「姨母帖」などはおおらかで素朴な感じはしますが、例えば「喪乱帖」に見られるような強い筆力はありません。「草書はいつも苦労の多いものです。長年これに苦しんでいます」とか「飛白は上手く書けません。大好きなのですがこれは至って難しい書体です」と言った羲之の書簡が残っています。「張芝は池に臨んで書を学び、池の水が黒くなったと言うが、私もそのくらい一生懸命やれば彼に後れを取る事はあるまい」とも言っています。そして実際にそれくらい努力をしたのでしょう。

晋書王羲之伝は「羲之の書は初め「ユ翼」・「キイン」に及ばなかったが、晩年には精妙となった。或る時「ユ亮」に手紙を書いたが、弟の「ユ翼」がこれを見て「私は昔張芝の書を10枚持っていたが、南へ移ってきた時のどさくさで失くしてしまい、残念に思っていた。しかし今この書を見て、張芝の神技が還ってきたのかと思った」と深く感嘆した」と伝えています。

王羲之は各書体に精通していたと言われていますが、八分や飛白体の遺作は伝えられておらず、またその他の書体も真蹟は一点も伝わっておりません。

「蘭亭叙」は行書の代表作で、唐の太宗がこよなく愛蔵し、死に際して棺と共に埋めさせたという話は有名です。一時郭沫若が「蘭亭叙」は隋の智永の偽托とする蘭亭偽作説を出しましたが、これには反論が続出し、今日では否定されています。和堂先生も「清和」160号の書談(112)の中で反論しています。現在6種の墨蹟本が伝わっています。@蘭亭八柱第一本(張金界奴本) A蘭亭八柱第二本(?遂良摸本) B蘭亭八柱第三本(神龍半印本) C絹本蘭亭叙 D黄絹本蘭亭叙 E陳鑑摸蘭亭叙  

もう一つ羲之の行書の代表作に「集字聖教序」があります。玄奘三蔵が印度から持ち帰った経典の翻訳が完成した事を記念して、太宗が自ら撰した「聖教序」を、弘福寺の沙門懐仁が羲之の行書を集字して綴ったものです

楷書の刻帖(石や木に刻して拓したもの)としては

@     楽毅論 A黄庭経 B東方朔画賛 C告誓文  などがあります。

草書体の書簡文の摸本も多く残っていますが、王羲之の書境を示す代表作は、「喪乱帖」と「十七帖」といえるでしょう。どちらも無駄をはぶいた筆使いと筆力に満ちた美しさが特徴です。「喪乱帖」は桓温が北伐に一応成功して洛陽に入った時のもので、祖先の墓が荒れてそれを見に行く事も出来ないのを嘆いた手紙です。「十七帖」は羲之の書簡二十九通を集めて一つの帖にまとめたもので、多くは蜀にいた友人の周撫にあてたものです。羲之は退官後各地を旅行しましたが東方が主で、周撫が任地に居る間に一度は蜀に行きたいと熱望していたのですが、これは果たされませんでした。