佐藤中堂先生を悼む

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 平成19年2月22日、佐藤中堂先生が腎不全で亡くなられた。先生は大正8年1月15日、東京品川のお生まれだから、行年88歳になられる。高輪商業学校在学中に植村和堂先生に師事された。清和会幹部の須山孝堂氏、北村武男氏、清水誠氏などはこの時の同窓生だが、皆鬼籍にはいられてしまった。

 その後東洋大学文学部に進学、ご両親の故郷神奈川県秦野で、秦野市立南小学校を皮切りに30年間教員を務められる。

 和堂先生のもとで書の研鑽に励み、子供相手に書道塾を開いておられたが、教員生活を引退後、中堂書道会を立ち上げて、書の道に専念され、秦野書道協会の副会長、会長を務めておられた。

 物静かな紳士・淑女の多い清和書道会の中では異例に陽性の性格で、常に場を盛り上げ、周りの人達を楽しませてくれ、忘年会の司会や同人総会の福引抽選会などには欠くことのできない宴会部長だった。

 清和書道会がまだ本郷台町にあって「修静書院」と名乗っていた頃、教場に顔を出すと当時流行の漫画「のらくろ」や「蛸のはっちゃん」の絵を半紙に書いてくれたので、我家では専ら「のらくろの小父さん」と呼ばれて人気があった。

 大層旅行がお好きで、戦時中召集令状が来た時も和堂先生と奈良に旅行中で、母上が行方を捜すのに苦労されたとのことである。

 終戦直後の昭和21年、やはり和堂先生達と奈良に旅行しておられた時、車中で修学旅行中の制服姿の女学生の一団と乗り合わせ、奈良で干拓してきた碑文を、丸顔の可愛い女学生に見せて解説されたそうである。男女7歳にして席を同じうせずの気風がまだ抜けない当時、早速学級委員から「怪しい人とは口を利いてはいけない」との通達が廻ってきたとのことである。
 この美少女がやがて清和書道会に入門して、吉祥寺の教場にうかがったら「和堂先生の隣にあの怪しい人がいたので驚いた」と述懐しておられた。現在の高田芳春先生である。

 先生が得意とされたのは、雅趣溢れる版画と版字で、最近の清和書展では定番になっていたし、私も何枚かいただいて大切に保管している。

 2年ほど前に軽い脳梗塞を患われて、手足がご不自由になられたが、頭と口とはすこぶる達者とのことだったので、平成18年の夏季錬成会の帰りに、先生が療養中の施設にお見舞いに伺うつもりだったが、途中道路が混んで門限に遅れてしまい、果たせなかった。今年の冬の錬成会の帰りにと考えていたが、既に日赤病院に入院されやはり果たせなかったのは心残りである。

 幸い御門下の皆様が中堂書道会を立ち上げて、先生の衣鉢を継がれるとのお話で、及ばずながらお力になりたいと考えている。
                        
     (林閑堂記)

(第16回清和36人展にて)1995年2月

(第46回清和書展表彰式で 名司会ぶりを見せる先生)

(米寿のお祝いで奥様と)

(第23回清和36人展出品作)

(第16回清和36人展出品作十五番歌合倣書)

(遺墨)