植村あい(母の事)

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 母「あい」は、7年ほど前に、外出しようとして自宅の前で転び、腰を強く打ってしばらく入院した。この後足が弱って歩くのが困難になり、車椅子生活を余儀なくされるようになった。しかし体はほかに異常はなく、自ら「口と胃袋は達者だ」と自慢していた。
 ただ流石にここ1〜2年はだいぶ惚けてきて、どうにか息子の顔だけは判別できたが、嫁や孫の顔はわからず、自分でも「頭が馬鹿になってしまって困ったよ。」と嘆いていた。耳もかなり遠くなり、施設でも他の人との会話ができず、縫いぐるみの猫だけが唯一の友達と言った感じで、寂しそうだった。
 今年に入って、心臓と肺と腎臓が弱り、施設と病院の間を往復していた。12月半ばに北千住の愛里病院に入院し、主治医の話では落ち着いているとの話だったが、27日の早朝、容態が急変して不帰の客となった。法名「釈尼慈愛」享年95歳。父常次郎の96歳に1歳及ばなかった。

 母は父の陰に隠れてあまり目立ちたがらなかったが、意外と波乱にとんだ生涯を送っている。「私に筆が立ったら、伝記を書くのだけど」と言いながら思い出話を良くしてくれたが、なぜか少女時代の話が多かった。

 明治42年、岡橋利喜松とみきの長女として大阪に生まれた。兄に松之助がいる。
 父親が商売に失敗したのか、故郷を離れて一家で当時は日本の領地だった台湾に移り住んだ。それも父親の赴任先が高雄の近くの田舎の村の駐在巡査だったので、少女時代を台湾の片田舎で過ごしている。多分田舎の方が俸給がよく、暮らし易かったからだろう。
 台湾の原住民が暴動を起こして、便所の下に隠れた母子が、赤子の泣き声で見つ出されて殺されてしまった話とか、父親が拳銃で猟をしたために上司の訓戒をうけた話などをしていた。

 父親と死別した後、再び大阪に戻って来る。一時電話局の交換手をしていたが、やがて西宮にあった個人経営の貿易会社で働くようになった。この会社の清水さんという社長には随分と可愛がられたようで、思い出話の中にしょっちゅう顔を出す。敬虔なクリスチャンで「清水さんは別に人に勧めるわけでもなかったけれど、ある日清水さんの行っている教会に顔を出したら大層喜んでくれて、聖書をくれたんだよ。あれはどこへ行ってしまったかね。」
 母親も兄も働きに出てはいたが、勿論生活に余裕はなかったと思われ、働きながらYWCAが経営する夜学に通って勉強をしたようだ。「働きながら勉強をしたいと思っても、当時はYWCA以外に夜学の女学校はなかった。佛教はぼやぼやしていて、大谷さんなんか相続争いに夢中だったから。」というのが母の口癖で、「南無阿弥陀仏」を唱えながら賛美歌も歌っていた。

 24歳の時、3っつ違いの父常次郎と結婚し上京。常次郎とあいは母親同志が姉妹だから、従兄弟に当たり幼馴染である。初め馬喰町に住み、次いで芝に移り、やがて本郷台町に居を構える。この間に修、齊、正の3人の息子が生まれた。本郷の家は借家ではあったが、東大の落第横丁と菊坂の間の閑静な住宅街にあり、玄関も小さな庭も備えた落ち着いた家であった。父はここで修静書院の看板を掲げて本格的に書道教授に取り組み、しばらくは平穏な生活が続いた。

 しかしやがて太平洋戦争が始まり、昭和16年修が小学校3年、齊が1年の時、学校単位の集団疎開により、それぞれ栃木県下のお寺で暮らす事になる。やがて齊の疎開していた小川町の寺が火事で焼け、修の居た下江川村の真福寺に引き取られた。母は火事の報に東京から飛んできたが、息子の無事を確認した後こういった。「火事で生徒が怪我をしたと聞いて、まずうちの子ではないかと心配したのだよ。次に考えたのはうちの子が火を出したのではないかということだった。どちらでもなくて本当によかった。」

 太平洋戦争も末期になって戦火が東京にまで及び、本郷の家は火災の延焼を防ぐためと称して取り壊されて道路になってしまった。やむなく母は正を連れて下江川村の農家に部屋を借りて親子4人で暮らす事になった。父は親戚の家などを転々として東京で頑張り続けたが、やがて召集されて出征してしまう。
 終戦の直前になって、父の兄の子供達も東京を追われて頼ってきたため、狭い部屋に7人の大家族で暮らす事になった。尤も是はごく短期間で、間もなく近所の寺のラジオで終戦の詔勅を聞く事になる。

 考えてみると、終戦の年母は36歳。まだ若い身空で父は応召で居なくなり、食べ盛りの子供や甥っ子姪っ子を5人も抱えてさぞや心細かった事だろうと思う。父が居た間は多少の仕送りは受けていたであろうし、少々の蓄えもあったろうが、所詮限りのあることで、持参した着物などを食糧に換えて細々と食いつないでいたようだ。

 食べられるだけでも有難いと思わなければならなかったのだろうが、随分いろいろなものを食べさせられた。サツマイモを苗床でそだて、茎を畑に植えて育てる。後に残った苗床の芋の残骸は本来なら捨ててしまうものだが、これを買うか貰うかしてきて食べた。栄養分は苗に吸い取られた残骸だから、びしょびしょしていて旨くもなんともなかったが、腹だけは一杯になった。サツマイモは茎まで食べた。

 小麦を粉に挽いてふるいにかけ、小麦粉と皮を分離する。皮の部分は「ふすま」と称して家畜の餌にするのだが、これを最小限の小麦粉で固めて餅状にし、蒸して食べさせられた。これも相当物凄い食べ物だが、それでも噛んでいるうちにそこはかとない味がしてくる。サツマイモを練りこんで甘味が付けてあれば御の字である。

 米を炊いた雑炊などは勿論最高級のご馳走である。夏の暑い日、腐らせないために余った雑炊の鍋に紐をつけて井戸に垂らしておいたところ、間抜けな蛇が紐を伝って下り、上れなくなって鍋の蓋の上でとぐろを巻いていた。蛇の大嫌いな母は、しばらく逡巡していたが、やがて意を決して紐を引き上げ、蛇を棒で追いとばして首尾よく雑炊の鍋を確保した。

 昭和20年8月に終戦になって、父は運良く9月に復員してきた。東京で仮住まいうをしながら、書道の復興に努めていたが、堀切菖蒲園近くの長屋を買い求め、昭和23年に妻子を呼び戻して、長らく離散していた家族はやっと一緒に暮らせるようになった。洪水にあって床上浸水し、傾きかけた4軒長屋だったが、一応大家さんだった。隣には韓国人の夫婦が住んでいて、闇米を加工して飴を作るのを生業としていたが、母はこの夫婦と親しくなり、飴を作るのを手伝って、当時は貴重だった飴をもらってきたりした。「飴を練るのはとても力がいるんだよ。手につばをつけて練るんだから、あれは見ないほうがいいね。」などといっていた。

 昭和25年、西日暮里の家に移った。この年父は清和書道会を設立して、書活動を本格的に始動させる。其の一環として、会のPRと会員への情報連絡のために「清和会報」というガリ版刷りのパンフレットの発行を始めた。当時のガリ版の器具や用紙が今でも残っている。鉄筆でガリ版を切るのは勿論父の仕事だが、帯封を巻いて宛名を書き、発送するのは母の役目だった。「こんな面倒な事は止めてしまえばいいのに」と文句を言いながらも、子供たちにも手伝わせて一生懸命やっていた。

 昭和27年にガリ版ではなく、本格的な印刷の機関誌「清和」が発行されるようになる。第三種郵便の申請に郵便局へ行った母は、「郵便局の人から、せめて3ヶ月は続けて下さいよねと念を押されてしまった。」と言っていたが、お陰で今でも続いており、628号を数えている。しばらくは母が発送を一手に引き受けていたが、其のうちに規模が大きくなり、家内工業では立ち行かなくなって母の手を離れた。

 父は幸い書家として一応の成功を収め、清和書道会も大きく発展した。紫綬褒章や都民栄誉賞をもらったり、荒川区の名誉区民になったりもした。これも母の内助の功があったればこそだと思う。しかし晩年には、父の清和書道会会長としての顔が前面に出すぎて、顔が母の方を向いていないと感じていたようだ。特に腰を打って寝込んでからは、父の世話が出来なくなったと嘆きながらも寂しそうだった。
 それだけに、父の遺言書に、収集した書画は博物館や美術館に寄贈するが、一番気に入っていた古筆を綴じこんだ手鑑だけは母に残すと書かれていたのを見たときは、良かったなと思った。明治男の父には、面と向かって母に優しい言葉を掛けるのは照れくさかったのだろうが、決してないがしろにしていたわけではなかったのだとわかって、非常に嬉しかった。

 母の生涯を振りかえって見るとき、色々苦労はあったが激動の時代を何とか無事に乗り切って、後半生は平穏な生活を送れたといえよう。一つだけ母にとって残念だったことは、息子ばかり生んで娘を産まなかったことであろうか。
 娘になら不満や愚痴を目一杯ぶつけてストレスを解消する事も出来たのに、息子が相手ではそうもいかなかったことだろう。母親の心情を十分わかっているつもりではいても、込み入った話は逃げてしまうから。
 そのような内心多少忸怩たる思いも込めて、母の冥福を祈っている。
      (平成17年1月  植村 齊記)







 

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