第1章  書 の 美

1) 文字と書

高等学校美術科書道の解説書には、「書は文字を素材とした造形芸術である」となっています。まあ妥当な定義と言えましょう。一般的にいえば、筆に墨をつけて紙に文字を書いて鑑賞する、中国、日本を中心とした漢字文化圏特有の芸術です。

「書」について西欧の人と話をするとき、説明をするのが面倒なので、つい「カリグラフィー」と言ってしまいますが、「カリグラフィー」と「書」は違います。確かに「カリグラフィー」も文字を綺麗に美しく書く技術ですが、アルファベットを鵞ペンで書いたものは単調で表現力に乏しく、鑑賞に値する芸術作品にはなりません。

 以前知り合いのアメリカ人に趣味はカリグラフィーだと言った所、それでは米粒に何個文字を書けるかと聞かれて答に窮したことがありますが、カリグラフィーを筆写の技能だと考えれば、こんな質問もあまり的外れではないのかもしれません。

 漢字文化圏以外で「書」が発展しなかった大きな理由は、アルファベットなどの表音文字は、形が簡単で種類も少なく視覚的装飾性に乏しいため、芸術作品にまで進化出来なかったことにあると思われます。

エジプトの象形文字(ヒエログリフ=神聖文字)は造形的に美しくデザインされ、大変装飾的なのですが、あまりに複雑で実用性に乏しく、ごく一部の神官や秘書官のみの独占物だったため、より簡単で実用性の高い「僧用文字」「民用文字」や表音文字に取って代わられ、「書」の発生はみられませんでした。

ただイスラム世界には「書」に類するものがあります。文字を書いて額に入れたものを売るのを商売にしている「書家」がいますし「書道塾」を経営している人もいます。また知識人といわれる人は教養の一環として「書=文字を美しく書く技術」を習います。江戸時代や明治の日本に一寸似ていますね。書く内容はコーランやハーディスの章句だったり、昔の有名な詩人の詩の一節だったりいろいろです。

 中国、日本、韓国といった漢字文化圏でも、中国では簡体字の普及、韓国では文字のハングル化、そして我国では常用漢字(当用漢字)とかな文字の一音一字化と言う具合に、実用文字は効率化のために時代と共に簡略化される傾向にあります。

カタカナでもアルファベットでも書作品にしてみせると豪語される書家の先生も居られますが、文字数が減って単調で変化に乏しくなれば表現力を制限する方向に働くことは確かですから、それぞれに困難に直面していると言えましょう。
 中国の簡体字を使った書というのはまだ見たことがありません。中国の書家の人達はどう考えているのか聞いてみたいものです。

 韓国は、文字がハングル化した後も書芸に使う文字は漢字にかぎられていましたが、1930年代あたりから、ハングルで書作品を作ろうという機運がでてきました。今後の動きが注目されます。

2) 書芸術の特異性

明治15年に洋画家の小山正太郎は東洋学芸誌に「書は美術ならず」と言う論文を発表しました。その論旨は

@ 書が扱う文字は意を伝えるのが目的で、他の働きを問う必要は無い。

A 日本人が書を愛玩するのは、語句を愛し、書いた人を慕い、古い骨董価値を愛しているに過ぎない。

B 書には図画のように彩色がなく、彫刻のように凹凸が無く、文字は決まっているので個人の創造性を活かす余地がない。

C 美術は言語の及ばざる所を補うものである。

D 書には国際性が無いので輸出できず、奨励するに値しない。

と言うものです。

この小山の論旨は、同じ東洋学芸誌上に掲載された岡倉天心の反論によって完全に否定され、書の名誉は保たれたのですが、小山正太郎の主張も全く根拠が無いわけではなく、書が他の芸術とはどこか異質であると言う認識は当時一般的でありました。

 例えば、明治23年に東京美術学校(現在の東京藝術大学の前身)が創設された時、絵画・彫刻・工芸科のみで書道科は設けられませんでした。また文展、帝展といった国が主催する展覧会も絵画、彫刻、工芸が主で、書が加えられるのは、戦後の昭和23年に日展に第五科(書道)が設置されるまで待たねばなりませんでした。

 一般に、絵画、彫刻、演劇、小説等の芸術作品は、自然や人間界の現象に作者が感動を覚えて、その感動を他人にも伝えようとして作り出されるものです。自分が感じた感動を表現するために、自然そのまま写すのではなく、取捨選択し、強調したり、ディフォルメしたりします。そこに作者の創造性が発揮されることになります。

ところが「書」は純粋な抽象芸術で自然界にお手本が存在しません。お手本となる自然を持たないので、これに代るものとして古筆、法帖を重視します。画家が自然をスケッチし、小説化が人間社会を観察するのと同じ感覚で、古筆、法帖を習います。書道の練習の過程を「習字」とか「手習い」というのはそのためです。

回帰すべき自然を持たないのは何となく落ち着きが悪いので、王羲之は鵞鳥の首の動きから書法を悟ったとか、張旭は剣舞を見て開眼したとか、懐素は入道雲の千変万化する様を見て書法を編み出したとかいった話が巷間に流布されていますが、我々凡人が鵞鳥や入道雲をいくら眺めてスケッチしたところで、書が上達するものでもありません。

画家も勉強のために時に名画を模写しますが、書道の臨書とは異なります。その証拠に、臨書は作品として展覧会に出品することが出来ますが。名画の模写は展覧会に出品できません。

チョ遂良が臨書した「蘭亭叙」や光明皇后の「樂毅論」など模作ではなく芸術作品として尊重されています。

その点音楽は、同様に抽象性の高い芸術で、「書」と似たところがあります。ベートーベンの第五をカラヤンやベームやトスカニーニやフルトベングラーがそれぞれの解釈を加えて演奏するのは再現芸術として立派に認められています。書道で言う「意臨」に相当するのでしょうか。

自然というお手本を持たない「書」の美には、絶対基準は無く、多くの人が美しいと感じる「書」が上手な「書」だといえます。和堂先生も「書の見方は直観に始まって直観に終わる。「この字は好きだ」「こんな字は嫌いだ」と言い切ってよいが、自分の好きな字が、誰が見ても素晴らしいとは限らない。人の好みは万人皆同じと言うわけには行かないから、書法の巧拙を審査する展覧会でさえ、審査員によって甚だしく意見が食い違うことがある。」といっております。

その点、古筆・法帖は長い時間を掛けてふるいに掛けられ、評価が定着したものなので、比較的安心して上手な書だと信頼することが出来ます。しかしそれでも猶、そのような第一級の古筆・古法帖に対して著名な書家の評価が分かれる場合があります。

顔真卿の書は蘇軾が「顔公は古今の筆法を集成し、書の変化を極めた」「今までの筆法を変え、新意を出した。細い筋に骨が入っている様は、秋の鷹を見るようだ」と激賞し、黄庭堅も「どの作品を見ても王羲之以来の超逸絶塵の趣を得ている」と称揚し、王羲之と並んで中国の書の二大潮流を形作るものとの評価が定着しています。

しかし米?は、「顔真卿と柳公権の挑?(チョウテキ=跳ねたり蹴ったり)の法は後世の醜怪悪札を生み出した」と言っていますし、石川九楊氏も「顔真卿の楷書は、初唐代の楷書とは比較にならない醜悪な書である。単調で泥臭く暫く見ていると辟易するほどの俗書である」と切り捨てています。

我国のかな古筆の最高峰は高野切第一・二・三種というのが定説ですが、鈴木翠軒氏は「高野切第一種は箱入娘、第二種は同じ形のものばかりで、ゴム印でも作って押したほうが早い、第三種は気の利いた奥様だという人がいるが、私には間の抜けた奥様に思える。」とこき下ろしています。

3) 書の美の構成要素

「書」の美を構成する要素は、「文字の形」「文字群の配置」「線」「墨色」などですが、中でも「書は線の芸術である」と言われるように、「線」が重要視されます。

勿論この「線」とはただの幾何学的な線をいうのではなく、墨の濃淡、潤渇、太細などに変化のある表情を持った線をいいます。これを墨量、運筆の速度、圧力、筆管の傾きなどを変化させながら、ひと筆で表現する所に書道の特徴があります。このような変化に富んだ連続した「線」を一息で書き上げ、その中に感情や気品やを盛り込まなくてはなりません。何度も加筆して形を整えるのは、提灯屋といって排斥されます。

自然科学でも努力より天才のひらめきが重視される数学や理論物理のようなものもあれば、星の観測や品種改良のように膨大な努力の積み重ねが結果に結びつくものもあります。同じように「書」の美の諸要素のうち、他の要素は比較的ひらめきやセンスの余地が大きいのに対して、「線」は最も努力と鍛錬を要する項目なので、これを重視して「書は線の芸術」と言ったのではないでしょうか。

「書」の中でも伝統的な仮名や漢字は比較的鍛錬の要素が強く、近代詩文書や墨象といった前衛的な書道はより感性や天分の占める位置が大きいといえます。

古来中国や日本では、書画同根といって、「書」は自然の形象を抽象化した文字を扱い、画は客観に則して応物写形したもので、根源は同じという考えがあります。従って「画を工にする者 多く書を善くす」などとも言います。

物の形を抽象化したものが文字で、物の形を具象化した物が絵画だと言われていますが、しかし象形文字から発達した漢字といえども、極めて恣意的に定められたもので、自然の形象から必然的に出来上がったものでは決してありません。例えば、「日」は日輪を象り、「口」は口の形から出来上がったとされますが、これが逆に「口」が日輪を現し、「日」が口の形だとしてもちっとも可笑しくありません。「月」と「目」も同じことがいえます。晒(さらす)と泊(とまる)も、「日が西に」傾いたのが(とまる)で、「水で白く」するのが(さらす)でも一向に差し支えありません。従って「書画同根」の根拠は薄いのですが、書と東洋絵画が共に線を重んずるという点は共通しています。



第2章  書 の 歴 史

1) 漢字の変遷

中国でも先史時代には意思伝達手段として絵文字や結縄が使われ、やがて象形文字が現れ漢字に発達していったと考えられていますが、現存する最古の体系的な文字は殷代の甲骨文です。周代に入ると、青銅器に刻された金文、石に刻した石鼓文などが現れました。複雑で装飾性があり造形的にも優れた文字です。これらは総称して「大篆」とか「文(チュウブン)」と呼ばれています。

 秦の始皇帝は天下統一の後、宰相の李斯に命じて地域によって異なっていた文字を統一し、点画を省いて書き易く改めました。これが篆刻用の文字として今日でも使われている「篆書」で、「大篆」に対して「小篆」とも言います。しかしこの小篆も、政治機構が拡大して文字の需要が増えてくると、煩雑で実用性に欠けたものになります。そこで程?は篆書を更に簡略化した「隷書」を作って始皇帝に献上し、始皇帝はこれを身分の低い下級役人(徒隷)が使う事務用文字として採用しました。後の時代の隷書と区別して「古隷」とも言います。

後漢に入って、古隷はより装飾性を高めて波礫(横画の波のようなうねり)を持つ八分隷に発達し、隷書の速写体としての章草も使われるようになりました。後漢の末期から六朝時代にかけて、八分隷から装飾性を取り除いた楷書、筆記体として実用性に優れる行書、速写性を更に増した草書(今草)が現れ、ほぼ今日の字体が出揃いました。

現在中国では簡体字の普及に努めています。このように漢字の歴史は、機能を重視した文字簡略化の歴史でもあるのです。幸いエジプトほどには簡略化が進まず、表音化もしなかったので「書」の文化が途絶えることはありませんでした。

漢字は創生当初から装飾性があり、点画は美的考慮を払って構成されていますが、宗教や政治上の権威の束縛から解放され、個性が尊ばれ、「書」の芸術性が自覚されるようになるのは、後漢以降と思われます。この時期、筆や紙も実用化され、今日使われている書体もほぼ出揃い、張芝、蔡?などの能書家の名前が歴史に現れるようになります。筆は秦の蒙、紙は後漢の蔡倫が発明したと伝えられています。

六朝時代、東晋の王羲之が上司のユ亮に書いた手紙をみて、自身優れた能書家であった弟のユ翼が「私は昔張芝の書簡を十枚持っていたが、戦乱のどさくさで失くしてしまい、大変残念に思っていた。しかし今この書を見て、張芝の神技が還ってきたのかと思った」と感嘆した、という話が、「晋書・王羲之伝」に載っております。漢の張芝の書が当時既に鑑賞の対象として珍重されていたことがわかります。

中国の書芸術は王羲之・王献之を経て、唐の三大家(虞世南・欧陽詢・チョ遂良)に至って、全盛期を迎えます。

2) かなの発明

 日本書紀によれば、応神天皇の16年百済から王仁が「論語」と「千字文」を伝えたとありますが、中国から漢字が渡来したのは3〜4世紀と考えられますが、渡来してしばらくは、文字を扱うのは一部の渡来人に限定されていたことと思われます。

現存する日本人の最古の肉筆は、7世紀の聖徳太子自筆の法華義疏です。8世紀に入ると、日本人も「大宝律令」「古事記」「日本書紀」「万葉集」や戸籍など、漢字を使って多くの記録を残すようになりました。

漢字を使って、日本語を現す試みは、魏志倭人伝に見られ、我国でもこれを真似て7世紀以前から行われていたと思われますが、いわゆる万葉仮名として、固有名詞以外にも広く用いられるようになるのは、八世紀の奈良時代に入ってからです。

平安時代になると仮名は大いに発達・普及します。漢字の楷・行書体を使って「倭語=やまとことば」を書き表したいわゆる万葉仮名は「をのこで」或いは「真仮名」と呼ばれ、男子専用のかな文字として普及しました。筆記用の速写体として漢字の草書体を使った万葉仮名は「さうがな」と呼ばれ、これは男女共用でした。

当時女子が楷・行書体の漢字を用いることは忌避されていたので、草仮名の字画を簡略化した女子専用の書体が10世紀に誕生し、「をんなで」と呼ばれていましたが、簡便で実用性が高いので、11世紀には男子も使うようになりました。これが「ひらかな」の原型ですが、一つの音に対して何通りもの文字があるので現在のひらかなよりも遥かに多くの文字数がありました。試みに『携帯かな字典』(角川書店)を開いてみると字母数が251あります。同じ字母でも何通りかの崩し方があるものがありますから、少なく見積もっても500以上の「をんなで」が使われていたものと思われます。

1900年に小学校令施行規則が発令されてひらかなは1音1字に統一され、選から外れた文字は「変体仮名」と呼ばれて小学校では教えなくなりました。効率化のためには止むを得ない処置ですが「変体」は一寸可哀相ですね。漢字の偏や旁を採用し、仏典・漢籍の行間に書き入れる符号から発達したのが「かたかんな」で、平安末期に成立し、近世に現在の「かたかな」に統一されました。

11世紀に入ると「ひらがな」は上代様と呼ばれる端正な姿に成長し貴族社会の中で地位を確立しました。上代様かなの最高傑作と言われる高野切古今集が書かれたのも11世紀半ばと推定されています。

漢字に比べて種類が少なく、表音文字である「ひらがな」が「書」としての芸術性を確保できたのは、連綿と変体仮名による所が大といえます。更に変化をつけるため、草仮名も仮名書道にはしばしば登場します。かな書道から連綿と変体仮名を除くと、単調になりすぎて「書」としての芸術性を維持するのは大変困難になります。

もう一つかな書道の美的要素をサポートする重要な要素は美麗な料紙や表具といった工芸の要素です。これらが一体となって平安貴族が理想美と考えた上代様かな書道の、女性的艶めかしさが演出されているのです。

それにしても、中国伝来の漢字とは完全に異なる表音文字のひらかなを使って、全く新しい書芸術であるかな書道を創造した先人たちの業績は高く評価されてしかるべきでしょう。

3) 師風伝承と改革

上代様かな書道の完成者、藤原行成の子孫は、代々書の道で朝廷に使え、世尊寺流として栄えます。

南北朝時代、尊円法親王は、世尊寺流を学んで独自の工夫を加え、尊円流(青蓮院流)を興しました。この書風はやがて江戸幕府に採用され、お家流として幕府役人のご用流派になり、江戸末期まで命脈を保ちます。一般庶民が寺子屋で学ぶ書道もお家流でしたから、中世から近世を通じて最も一般的な書風は上代様の流れを汲むお家流であったといえます。

室町時代には秘事口伝・師風伝承が尊重され、個性は抑制されました。公家階級が没落し、経済的に困窮した彼等は得意とする芸道の祖となって身を立てるため流派を乱立ました。また芸事に道徳や宗教が結びついて「道」の観念が隆盛になり、顧客の囲い込みを図って家元制度を発達させました。華道・歌道・茶道・書道・香道

桃山時代に入り、このような鋳型を打ち破り、上代様を参照して独自の境地を開こうとする人達が現われました。「寛永の三筆」と呼ばれる本阿弥光悦(刀剣鑑定家)、近衛信尹(ノブタダ関白左大臣)、松花堂昭乗(石清水八幡の僧侶)や烏丸光廣(廷臣、歌人)などです。

別の流れとして、室町時代、禅僧達によって導入された中国書法が、幕府の儒学奨励の影響もあって江戸時代に盛行し、細井広沢、新井白石、荻生徂徠、伊東東涯、太宰春台、寂厳、慈雲、亀田鵬斎、良寛、頼山陽といった儒者、漢学者、文人達が、宋、元、明の書風を取り入れて、漢詩文を書くようになりました。幕末の三筆と言われる巻菱湖、市川米庵、貫名翁もその代表で、唐様と呼ばれています。幕府役人の公文書や寺子屋で字を習う一般庶民はお家流ですから、数の上からいえば圧倒的に和様が多いのですが、文人は有名人なので唐様は一般庶民にとって憧れの書法だったのでしょう。「売据と 唐様で書く 三代目」という川柳がその辺の事情を的確に伝えていなす。

(因みに「売据」とは建具付きで家を売り出すことで、三代目の道楽息子が家産を潰して親代々の家を売りに出すのに、書いた文字はハイカラな唐様だったということです。)

4) 明治期の書道ルネッサンス

維新後、明治政府は官用文字をお家流から唐様の菱湖流に改めました。菱湖の門下には、明治書壇を代表する巌谷一六、西川春洞、日下部鳴鶴などがいます。

明治13年(1880)清国の金石学者だった楊守敬が清国公使館員として沢山の六朝期の拓本を携えて来朝し、日下部鳴鶴、巌谷一六、松田雪柯等に大きな影響を与えました。別に中林悟竹も清国に渡り、六朝風書道を学んで帰国しました。これらの人達は、師風伝承から脱却して古典に帰る運動を展開しました。

一方かな書道も、三条実美、高崎正風、大口鯛二、阪正臣、多田親愛、小野鵞堂らが「なにはづ会」を結成し、古筆類の研究と古典知識の普及・上代様の復興に努めました。

明治の初期に六朝書運動と「なにはづ会」によってもたらされた、書道のルネッサンス運動も、大正期に入ると定型化して新鮮さを失い、大家を中心に鳴鶴流、鵞堂流などの分派が発生します。

5)        全国的書道団体結成の動き

大正13年に頭山満、中村不折、尾上柴舟、豊道春海などが中心となって書道奨励機関の設立と絵画同様書道でも展覧会を開催したい旨の請願書が貴衆両院に提出され採択されました。この結果「日本書道作振会」が結成され、昭和2年東京府立美術館で、日本で初めての全国的な書道の展覧会が開催されました。

この日本書道作振会はやがて分裂して、昭和五年豊道春海、尾上柴舟や鵞堂流の人々が「泰東書道院」、昭和7年には鳴鶴流の人達が「東方書道会」、昭和12年には比田井天来が中心になって「大日本書道院」を設立しました。

太平洋戦争が始まると、自由な書道団体の活動は制約を受けるようになり、昭和17年大政翼賛会書道報国会、昭和18年大日本書道報国会が設立されて、全ての書道会はこれに統合されてしまいました。

6) 戦後の書道界

終戦間もなく、日本の書家を糾合した団体を設立する動きが活発化し、昭和21年、日本書道美術院が設立されました。会長は尾上柴舟で、会員も当時の書道会を網羅していた。例えば漢字作家では豊道春海、手島右卿、田中真洲、香川峰雲、青山杉雨、上条信山、大沢雅休、石橋犀水、金子鴎亭、柳田泰雲、松井如流、仮名作家では飯島春敬、植村和堂、大沢竹胎、熊谷恒子、藤岡保子といった人達です。しかし個性の強い芸術家の集まりですから、翌年から脱退者が相次ぎ、新しい書道会が次々と設立されていきました。

書道芸術院(香川峰雲、香川春蘭、武士桑風)
謙慎書道会(豊道春海、西川寧、山崎節堂)
独立書道会(手島右卿)
会(鈴木翠軒)
書道同文会(松本芳翠、高塚竹堂)
星会(上田桑鳩、宇野雪村)
日本書芸院(関西の書道団体=辻本史邑、安東聖空、田中塊堂、日比野五鳳、村上三島、桑田笹舟)
中部日本書道会(名古屋中心の書道団体=大池晴嵐、石田泉城)

これらの書道会を横断する組織として、昭和23年に毎日書道会が設立されました。書家だけではなかなか永続的な全国組織が出来ないので、新聞社の名前を借りて書道界の大同団結を図ったとも考えられます。第1回全国書道展が開催され、今日まで続いております。

昭和23年、日展に待望の第五科「書道」が設置されました。
昭和59年毎日書道会から読売書法会が分離して設立され、主に関西系の書家と書道団体が参加し運営されています。(西川寧、柳田泰雲、青山杉雨、上条信山、村上三島、日比野五鳳、桑田笹舟)

現在多くの書道会や書道団体が活動を続けていますが、ほぼ毎日系と読売系とに分かれています。書道界の動向に詳しい人に、お宅の会は毎日系ですか読売系ですかと聞かれ、毎日系ですと答えると、何となく素性がわかったような顔をされます。


7) 韓国の書道事情

お隣の韓国は漢字文化圏ですが、李朝の世宗が純粋な表音文字「訓民正音」を定め、1446年に公布しました。現在のハングルの元になるものです。当時はこれを使用するのは宮廷内の女官が主で、知識階級の男子は依然として漢字を使用していました。我国の平安時代のかな文字と似たような状況だったのでしょう。

 しかし漢字に比べればはるかに簡単で覚えやすく効率的なので、徐々に普及し始め、現在では日常よく使う僅かの漢字を除いてはハングルしか使用しないハングル世代も育っていて、ハングルは実用文字、漢字は書芸用の特殊な文字という使い分けは、我国以上に進んでいるようです。
 従って韓国の書家の作品といえば漢字作品に限られていたのですが、1930年代に入って、始めて朝鮮美術展覧会にハングルの公募作品が入選し、ハングルを使った書作品への取り組みが始まりました。

 しかし現在はまだ圧倒的に漢字作品の方がが多いようで、2000年4月に開かれた第10回国際書道芸術展の出品作を納めた図録を見てみると、247点中ハングルの作品は9点しかありません。

 ハングルは、母音字母10種、子音字母14種、合計24種の字母を組み合わせて文字を組み立ててゆきます。「訓民正音」で定められた字形は版本体と呼ばれる活字体ですが、やがて宮体と呼ばれる筆記体が開発され普及しました。更に行書・草書に相当する速写体もあります。どの書体も書芸用に利用されているようですが、どれを使おうと単調さは免れないので、我国の漢字かな混じり文の調和体のように、ハングルと漢字を混ぜた作品も見受けられます。
 このようにいろいろ努力は払われているようですが、連綿がなく、変体かなを含めたかな文字にくらべれば文字数が少ないので、観賞用の芸術作品を作るうえで、かな書道に比べれば不利であることは否めません。

 別の動きとして、ハングルを一字書的に造型したり、更にディフォルメして墨象風に仕立てたり、或いは象形文字のように書いたりと言った試みもされています。まだ歴史が浅い事でもあり、今後どのように展開していくのかわかりませんが、これらの作品は、案外我国の同じジャンルの作家達との交流を通じて大きく発展していくかもしれません。


8)    中国の簡体字と書道

 中国を旅行して面食らうのは、看板や標識の文字が日本と違うことです。同じ漢字文化の国だからとたかをくくり、いざとなったら筆談ででも事は足りると思ったら、大いにあてが外れます。

 中国政府は、識字率の向上を図るために文字の簡略化を進め、1956年に第一次簡体字を公表しました。以来数次に亘って追加し、1964年に「簡体字総表」2238字を定めています。これらは我国の当用漢字と同じもの(万、与、区、双、当、虫、尽、寿など)もあり、また行書・草書体をベースにしたり、カタカナのように漢字の一部を使ったりしているので、何とか読める場合もありますが、全然読めないものも随分あります。

 中国の新聞や刊行物は簡体字で印刷されており、学校でも簡体字を専ら教えているので、既に従来の漢字(繁体字)は読めない人達も出てきています。

しかし中国書道界では、まだ簡体字は市民権を得ていないようで、稀に簡体字の作品も書かれるそうですが、我々の眼に触れることはなく、レベルの高い書道展は全て従来の漢字を使用しているとの事です。効率的な読み書きは簡体字で、芸術的表現は繁体字で、という使い分けが厳然として守られているようです。

 我国のかな文字が成立してから1000年以上経っていますし、韓国のハングルも500年以上の時間を経過してやっと芸術的表現への取り組みが始まったのですから、スタートしてから50年そこそこの簡体字にその動きが無いのは当然かもしれません。長い歴史と伝統を持つ漢字を捨てて、出来立ての簡体字などを相手にしたくないと言うプロの書家としての矜持もあるでしょう。

しかし時が経てば、過去の歴史に埋もれた文字ではなく、現在日常的に使用している文字を、美しく芸術的に表現してみたいと言う欲求は、必ず出てくると思われます。身近に紙、墨、筆という優れた表現媒体があるのですから尚更です。



第3章 現代の書道芸術

1) 読む書から眺める書へ

従来書作品は、色紙、短冊、懐紙、掛軸、冊子、巻子といったものが主体で、大きくても屏風か看板、扁額程度、手にとって眺めるか、和室に掛けて鑑賞するのが一般的でした。

しかし昭和に入って大会場での展覧会が盛行し、書作品の主たる発表の場となってくると、大きな壁面に掛けて遠くから眺めて評価されるようになり、勢い文字も作品自体も大きくなってきました。書かれてある文字を読み内容を理解しながらゆっくり鑑賞するというよりは、壁面に並んだ作品を歩きながら眺め、見た瞬間の第一印象が重視されるようになりました。おおきな展覧会で入選・入賞するには、ほんの数秒の鑑別・審査で審査員に強いインパクトを与えなければなりませんから、古典や古筆を学んで習得してきた技法がそのままでは通用しなくなってきています。 

特に仮名書道はこの影響を大きく受け、従来の仮名の造型をそのまま引き伸ばして作品にしたのでは単調になり、特に漢字作品との対比でどうしても見劣りがして迫力不足に陥りがちなので、意識して文字を左右に振り、大小を付け、線に変化をつけて、見所を強調し鑑賞者の眼をひきつける必要が出てきます。そのため「大字かな」などという新しい呼称もうまれました。

2)        書の大衆化

明治以来、国語表記は漢字仮名混じり文と決まっているので、この芸術的表現は、「書」の大衆化には欠かせないことです。

明治33年の小学校令で平仮名は1音1字となり、異体字は変体仮名と呼ばれ一般には使用されなくなりました。そこで大正から昭和初期に掛けて、平仮名に漢字を交えた平明な文を書く「調和体」が流行しましたが、変化に乏しいので芸術的には高く評価されていませんでした。

昭和八年、金子鴎亭は『書の研究』に、「漢詩偶像」という小文を乗せ、仮名の書風を主体とした「調和体」に対して、漢字の線質を活かした新しい作風を創造して芸術性を高めようという試み「新調和体」を提唱しました。

同じ頃、飯島春敬も、漢詩や古今和歌ではなく現代の詩「城ヶ島の雨」や「からたちの花」を表現するには、上代様や鵞堂流ではない表現法が必要だという主旨で、「現代詩書道」を提案しています。

これらの動きは戦後になって、毎日書道展で近代詩文書部となって採用され、漢字部、仮名部から独立した一部門を形成するようになりました。その後読売書法展にも引き継がれて、現在では独立した表現形態として認められています。(最近「近代詩文書作家協会」は「日本詩文書作家協会」と名前を変えました。)NHK学園が主催する書道展では、変体仮名が混じっている作品は仮名作品、変体仮名の無い作品は近代詩文書と定義して区別しています。

「書」は文字を素材とした芸術であり、書かれている内容とあいまって一層の感興を得るものであるから、現代人にはほとんど読むことの出来ない漢詩や変体仮名を使った古今和歌ではなくて、誰でも読めて親しめるものを書こうというのがこの近代詩文書の趣旨です。

ただ、連綿と変体仮名を使わない近代詩文書では、単調に陥らない工夫が不可欠なのですが、変化を付けようとしてディフォルメが行き過ぎると、趣旨に反してやはり読めなくなる危険があります。

3) 文字からの脱却

近代詩文書とは逆に、読めない漢詩や古今和歌が書かれている古筆や古法帖でも充分に鑑賞に値する芸術作品なのだから、文字性には拘らず、純粋に線や空間や墨色の変化で勝負しようと言う動きも戦後出てきました。

日常生活で毛筆は実用性を失い、毛筆による書は鑑賞作品に限られるのだから、文字が読めることは第一条件ではない、文字に縛られずに自由に自己表現をしようという主張で、「前衛書道」「新書芸」などといわれています。昭和25年、毎日書道展ではこれらの新傾向の書のために新たに第三部を設けました。

更に一歩進めて、文字に依存していたのでは文字に従属する第二芸術になってしまうので、素材としての文字を否定し、表現の主体を束縛しないで自我を主張し個性を発揮しようという動きもあらわれました。これはもう「書」とは呼べないので「墨象」「心線芸術」などと呼ばれています。

しかし、紙と筆とを使い、線の美しさを表現する場合は、まだ書と共通する点を持っています。これが、カンバスや板の上にブラシで何度も油絵具やペンキを塗りつけて表現するようになると「書」との共通点は全くなくなります。そのかわり、西洋の抽象絵画との類似点が増大し、区別が付かなくなってきて、小山正太郎が言っていた国際性は出てきます。

墨象の先駆者の一人大沢雅休は「自我の発露」「人間開放」「根源への回帰」のための作品だと主張し、上田桑鳩も「書の限界を超え、純粋に造型を極める」と言っています。これらの作品はどう定義を拡張解釈しても「書」ではないのですが、偶々発表の場として書道展を利用しているということでしょうか。

第4章         和堂先生の書

 和堂先生は、大正10年、16歳の時に、相澤春洋先生に師事しました。相澤先生は小野鵞堂、中村春堂と続く鵞堂一門なので、和堂先生のかな書道も鵞堂流からスタートしたことになりますが、古典、古筆の研究に精を出し、研鑽を積んで、平安朝の上代様に基づく独自の書風を確立しました。

 大正12年、18歳の時に大震災に遭遇して大阪に避難し、相澤先生の紹介で益田石華先生の門をくぐりました。益田先生は日下部鳴鶴門下なので、和堂先生は大阪にいた3年間、鳴鶴流の回腕法による六朝書道を徹底して修行しました。東京に帰ってきてからも古典の臨書を怠らず、六朝、唐宋、明清の書家の書を幅広く習得することに努めました。

 従って和堂先生は、ご自身をかな専門の作家とは考えていなかったようで、漢字・かなどちらの作品もよく書きました。例えば傘寿、七午、米寿、卒寿などの個展の出品作品は、半分近くが漢字作品です。

 漢字作品のうち3割は細字で、多くは写経です。出世作となった昭和4年泰東書道院特選の作品も細楷の「出師表」でした。
 かな作品は、お手本用には半切を沢山書いていますが、このような個展に出品するのは細字が主で、9割以上を占めています。半切より大きいかな作品は、殆ど出していません。

 しかし漢字作品には臨書が多く、一方かな作品は自運の創作が多いようです。特に条幅のかな作品は殆どが自運です。先生の漢字の臨書作品は、よく均整が取れていて端麗で、本来力強く古拙の趣のある西狭頌とか顔勤礼といった法帖の臨書でも、どこか優雅で美しくバランスが取れていて、王朝風のみやびを感じさせます。従って書作家としての創作活動はやはり和風の書・かな が中心であったと考えていいようです。

 先生は、書は元来実用書から発展したものであり、実用書の延長上に芸術書道があると考えていて、看板、手紙、箱書き、賞状などの実用書を疎かにしませんでした。観賞用の芸術書道は書けても、実用書を書かせると稚拙な作家が多いことを嘆き、門人たちへの戒めにもしていました。清和会の師範試験の問題中にも、必ず実用書の項目をいれて評価しています。漢字もかなも実用書もこなせなければ一人前の書家とはいえないというのが先生の一貫した主張です。

 和堂先生のかな作品は、自運でも古典に則ったオーソドックスなもので、効果を上げるための見せ場や、人目を引くためのディフォルメは作品の品位が落ちるとして否定していました。奇を衒って古筆・古法帖にない字形を勝手に作る前に、先人の残した字形の中から先ず探すようにと教えていましたし、自らも実行していました。

 先生は、2×6、2×8といった展覧会の大会場向きの大きなかな作品は殆ど書いておらず、半切の大きさがせいぜいでした。しかし、半切にしろ、或いは懐紙や色紙などの細字にしろ、先生のかな作品の特長は、淀みの無い線質の美しさに凝集されており、永年にわたって鍛えぬいた筆先から紡ぎだされる洗練された線は、たとえ小品であっても展覧会場で見るものの目を惹き付け、魅了するに足るものでした。

 残念な事に、このように磨きぬかれた線質は、一朝一夕に真似る事は出来ないので、門人達が先生の書風に倣って大字のかな作品を仕上げても、大会場ではもう一つ単調で見栄えがせず、公募展ではどうしても不利になります。そこで実力のある人達は、それぞれに工夫を凝らして会場効果の上る作品の制作に努め、和堂先生もこれを止むを得ない時代の流れして黙認していたようです。従って現在の清和会の中心をなす人達の大字かな作品は、それぞれに個性のある書風が並存しています。これは当会にとって必ずしも不利な要因とはなっていません。

当会の研究会や錬成会に参加すると、各講師の先生からこのような考え方もある、こういう表現法もある、などなどいろいろとアドバイスをいただけます。それらを勘案しながら、自分の個性や好みに最も適した作品を構築するように努力する結果、文字の選び方や作品の構成など、何時も考えながら学ぶ習慣が身につきます。
 もっとも、まだ十分に実力の伴わない間はかなりきつい状況であることは確かで、「どういう効果を狙ってこう書きましたか」とか「ここで何を表現したいのですか」などと講師の先生に聞かれて、「何となく書いたらこうなりました」とも答えられず、冷や汗をかく事もしばしばあります。A先生から受けた添削と、B先生から受けた添削の結果をいいとこ取りしたつもりで作品にまとめたら、C先生から「全体のバランスが悪いですね」と一刀両断されてしまうこともあります。しかしこのように悩みながら色々試みて作品を玉成させていくという過程は、それなりに楽しくもあり、有意義でもあると思うのです。


 和堂先生はまたよく絵を描きました。一時画家になりたいと思ったが、家が貧しくて高価な画材が買えないので、より手軽な書の道を選んだと言うような事を言っています。画題は花鳥、仏像、陶器、人形、能面、四君子、鳥獣戯画の模写など多彩で、いずれも鋭い線質を活かした新大和絵風のものです。師の相澤先生も絵を能くしたので、その影響もあったと思われますが、相澤先生の俳画風のものとはやや趣を異にしています。晩年日課で「白衣観音」を描き始め、十年ほどで三千枚以上描き溜めました。多少の菩提心もあり、描き続けると習性となって描かないと気持が悪いと言う事もあったのでしょうが、合わせて線質の鍛錬を欠かさないという意図もあった事と思われます。


第5章 和堂先生と写経

和堂先生は、写経には特別の思い入れがあったようで、見るのも書くのも集めるのも大好きでした。ある座談会でこのようなことを言っています。

「写経というのは実用に則しているのです。何故かといいますと写経はだいたい楷書で字数が多いので、かなりのスピードで細字をきちんと揃えて書く練習を積むわけです。従いまして写経をやっていると実用の手紙や何かに非常に役立ちます。だから私はうちの雑誌の有段者の昇段試験には必ず写経を書かせることにしています。」

 また日本の書道は写経から始まったので、書道の研究そのものにも写経は欠かせないと強調しています。

「漢字の法帖と称するものは、六朝・唐時代に石に彫ったもので、相当風化していますね。それを拓本にとり、更に印刷したものを習っているわけですよ。宋拓といってもせいぜい千年そこそこのものでしょう。ところが写経は千二百年以前の立派なものが沢山残っています。当時の書法を解明するためにも写経の研究は必要です。書道を習うには肉筆を見て書法を会得するのが一番いいとされているでしょう。」

 写経は実用や勉強の面での効用だけでなく、眺めていて大層楽しいものでもあります。

「天平や平安の人達が触れた紙、書き上げた墨色、それを手にとって眺めていると、千年、千二百年の昔の人達と相対しているような親しみを感じるんですよ。これは拓本や法帖だけしか知らない人にはわかってもらえない楽しみでしょうね。」

写経は美しい料紙、紫紙・紺紙と金銀泥などで荘厳された文字、表紙や見返しの模様と絵、などに,美術・工芸品としての要素も持っており、かな書道の王朝美と一脈通じる所があるのも愛好の原因の一つと思われます。
「久能寺経を明治34年に修理した際切取ったと思われる提婆品と嘱累品の巻末を最近一見した。文字は無くともそれだけで立派に鑑賞できる芸術作品である。」と言っております。

 和堂先生が紙の研究を志したときのことです。昔の紙を調べようとして、紙屋に行って古くから伝わる紙を買い求めたり、古本屋で古い手紙や古証文を買い集めたりしました。そのうちに古い紙なら写経が良いのではないかと思い当たりました。藤原写経なら藤原時代の紙だし、天平写経なら確実に天平時代の紙なわけです。

「それで集め始めたのが、古写経収集の動機のひとつです。」

 このように、和堂先生が写経を重視し、門人にも勧め、自らもその研究や収集や写経会の普及に力を入れられたのは、写経を通じて昔の書法を探り、細楷を鍛錬し、実用書道への応用を図る等の幅広い効用をも勘案しての事だったのです。

 

昭和30年に和堂先生が埼玉県比企郡都幾川村にある慈光寺を訪れ、有名な三大装飾経の一つである慈光寺経を拝観した時、中に混じっていた江戸時代の輔写本が粗末で見劣りがするので、これを昭和の技術で再生しようと思い立ちました。田中親美、福田喜兵衛、加藤湘堂等の諸先生をはじめ69名の皆さんと語らって、8年かけて方便、薬草喩、安楽行、妙音、勧発の5品を書き上げ、昭和39年5月に納経いたしました。先日慈光寺のご住職にお目にかかった時、「今度お出でになったときは、お見せしますよ」と言って下さいましたが、「あの頃お会いした方々も随分お亡くなりになりました。」と昔を懐かしんでおられました。

これが契機となって東京写経会が発足しました。会員数は300人に近く、毎年春秋2回、慈光寺、久能寺、柴又帝釈天、遊行寺、東大寺、建長寺、高野山、身延山、中尊寺などの寺院に大型バスを連ねて出かけていって写経会を催し、奉献していました。

先生はまたNHK学園や主婦の友の写経教室でも写経の講義を受持って、その普及に努めておられました。平成6年にはNHKの写経講座のために平泉の中尊寺に行き、テレビの録画取りをしています。先生は中尊寺の清衡願経一巻を所持していましたが、このとき持参して中尊寺に残るものと見せ合いっこをしました。「先生のお持ちのものの方が、保存状態がいいですね。」と向こうのお坊さんに言われて単純に喜んでいます。この経巻は、先生がなくなる時中尊寺に奉献しました。

 写経には、用紙から始まって、罫線の引き方、字数、経題や奥題の書き方、署名の仕方などに、細かい約束事が沢山あります。写経を学ぶに際して、和堂先生はこれらの約束事を守ることを要求しました。昇段試験の課題として出された時も、このルールから外れた作品は減点の対象にされていました。これは鍛錬の過程にあっては、古法に則って学んだ方が結局は効率的・効果的だと言う先生の哲学から来ているものと思われます。

 写経と似たものに、写佛と言うのがあります。仏様には沢山の種類があり、顔形や衣装や手の格好や持ち物などが厳密に規定されています、素人にはなかなか覚えられないので、お手本を見ながら、仏様の絵姿を写し、彩色するというのが写佛です。上手に出来上がれば大層綺麗ですし、信仰の対象にもなります。

印度へ行くとシバやガネーシャといったヒンヅーの神様のこの種の絵姿が沢山売られており、家庭や事務所や工場の片隅などに貼られて拝まれています。出来合いを買ってくるのではなくて自分で写し取れば、一層の功徳があることでしょう。しかしこれらはいくら上手に美しく写し取ったところで所詮は模写で、信仰の対象にはなっても、芸術品にはなり得ません。

写経も世間から往々にして写佛と同じようなものだと見られがちですが、本質的に異なります。先日銀座のカトレアサロンで開かれた、湘帆会の書道展に行った時、加藤湘堂先生の書かれた紺紙金字の写経を拝見しましたが、繊細な和様体の美しさは思わず息を呑む思いでした。見るものの美意識を突き動かす芸術作品以外の何物でもないとの感を深くしました。

和堂先生が最終的に目指したものも、芸術作品としての写経の完成で、昔の書法の探求や細楷の鍛錬や実用書道への応用はその副次効果と言うことでしょうか。昭和53年に金光明最勝王経10巻を東大寺に奉献した時も、「後世の人達がこの経巻を見て、我々が古写経を見るときのような感慨を抱いてくれるだろうか」と、王羲之の蘭亭叙のような感想を述べています。

 

 当会には和堂先生が築いた写経の伝統があり、いわば写経は清和書道会のDNAにくみ込まれた基本要素の一つともいえます。この灯を絶やさずに後人に伝えていくことは、当会の使命でありましょう。

 



第6章 和堂語録

 前章で述べた和堂先生の書の特徴や書に対する姿勢をより明らかにするために、著書や言行録の中から、先生の語録をいくつかを集めてみました。

1)        鍛錬重視

感性のみに頼る書を嫌い、書における鍛錬の重要性を機会あるごとに説いていました。;古筆の臨書は勿論ですが、有効な鍛錬法として、古典の倣書を推奨し、高位者向けの展覧会では倣書の出品を義務付けていました。未熟なうちから自分の個性を前面に出すことを特に戒めていました。

 自分の字ばかり見ているから上手くなれない。上手い字を真似して書け。自分の字はその次。」

「芸道は鍛錬を無視しては成り立たない。だから鍛錬を軽く見て、センスとアイデアをひたすら尊ぶ新しい芸術には大いに考えさせられる。しかし鍛錬は常に厳しい批判と深い反省の上に成り立っているのでなければ、徒に職人的な習熟に堕してしまう。」

 「創作」という聞こえのよい言葉がある。前人未到の境地に踏み込めれば本当の「創作」だが、そこに到達するには、臨書、倣書で確固たる土台を作っておかなければならない。「創作」と「出鱈目」は違う。」

「書の修行は臨書から始まる。最初は先生の書いた手本、少し進んだら古人の法帖や古筆を何年か習い続ければ、その結体・用筆法・線質は呑み込めてくる。そうしたら、その法帖や古筆の調子で全く別な文章や詩歌を書いてみる。これが倣書である。昔の手習いの先生は、師匠の手本を終始一貫習わせる人が多かった。お家流、鳴鶴流、鵞堂流などは、先生の字の倣書である。」

 習い込んだ法帖や古筆はしっかり身につけてから次に進まないと、折角の修行が無駄になる。徹底的に倣書に打ち込む一時期がなくてはいけない。活字の文字から一気に倣書作品が書けるようになったら、それはもう立派な一人前である。」

「日本の書道は、平安時代の末頃から法性寺流(藤原忠通。平安末期。道風、行成を学んで完成)・後京極流(藤原良経。鎌倉初期)・尊円流(尊円法親王。伏見天皇の皇子。世尊寺流を学び一派)・飛鳥井流(藤原雅経。鎌倉初期。和歌、蹴鞠、書の家)と呼ばれる流脈が出来た。流祖の筆跡を習い込んで倣書の域に達した人達である。流祖の倣書は当然流祖より低い。その門人の門人は更に落ちる。流派の弊害が目に付いてくると「個性を尊べ」と言う声が起こる。」

「個性の尊重と言う言葉には危険な落とし穴がある。磨き抜かれ、鍛え抜かれた後の個性でなければいけないのだが、勝手気儘なものが個性だと考えている人がいる。現代の書道界にはその傾向が強い。しかもその種の作品は程度が低いので簡単に真似が出来る。」

「最近(昭和33年)の展覧会の出品作品は、漢字部では古典の臨書が二割位しかない。自運は結構だが先生の手本を写したもの。かな部は臨書が六割以上。大字条幅仮名の自運は先生の書風丸出しだ。要するに古典の追求が足りない。自ら苦心しないで先生の手本に頼っている。」

「此の頃の展覧会の審査は、技量や鍛錬を見るのではなくて、趣向や傾向を審査している。」

2)        かな書道について

かなは古典の研究を重視し、連綿を大事にしました。 新しい壁面芸術としての大字かなの必要性は認めていましたが、効果を重視した行過ぎた誇張、ディフォルメは嫌っていました。自身は半切より大きいかな作品は殆ど書いていません。本心は、大字かな作品の流行で、伝統的な仮名の良さが崩れていくのを残念がっていたのだろうと思います。またかな書道は、文字、料紙、表具の総合芸術であると考えていました。

かなの美しさは、一字一字の美しさよりも、連綿した時のほうが遥かに変化に富んで美しい。かなの単体は、単純化され省略されているので、一つ一つは単調だが、上手に組み合わせていくと、千変万化の姿となり、眼を楽しませてくれる。」

連綿の根底は、古筆の臨書に徹するが良い。自分の最も好きな古筆を出来るだけ正確に連綿を摘出して臨書して覚えこむ。」

冊子と巻子は会場芸術としては扱いにくい。大字の仮名が増えてこないと漢字に対して見劣りがしてしまう。お座敷用とは別に会場芸術としての仮名の研究が必要だ。」

大字かな条幅が公募展に出品されるようになったのは戦後になってからだが、公募展で入賞するには大字かなでなければ駄目という風潮になってきた。美術館の壁面に掛けるには、長条幅のほうが迫力があって見栄えがするから、作品が段々大型する。 元来が繊細な加工を施した美しい料紙に書写するので発達したかなを、五十倍から百倍にも拡大して作品とすることは中々容易ではない。線が荒れるだけでは済まず、連綿や墨継ぎや余白の取り方にも工夫が必要である。」

日本では書幅を壁間に掛けるのは書院に床の間が出来るようになってからだから、室町以降のことである。しかしかな条幅となると、江戸末期になるまで例を知らない。明治・大正には、かな条幅の例は多いが、半切に和歌一首、稀に中雅仙に和歌一首というのが最大である。明治・大正のかな条幅は、字形が大きくなっても調子はそのままで変わっていない。写真で拡大した細字とあまり違った所はない。
 
ところが最近の大字作品となると、これでも仮名かと思うような形や筆使いだったり、こんな漢字があったかしらと首をひねるような奇怪な造型だったり、拡大するための苦心は重々お察しするが、そのためにかならしさが無くなり、漢字のかたちが崩れ、歌を知らなければ専門家も読み下せないような不思議な作品が急増してきた。これも展覧会の功罪の一つだろう。」

東京国立博物館創立百年名品店で一番目を牽いたのが「元永本古今集」だ。文字の見事さは言うまでもないが、和製唐紙に金銀切箔を散らした豪華な料紙には思わず吸い寄せられた。

「書はただ書くだけではなく、いろいろのものを知ったり研究したりすることによって、更に面白さも深さも増してくるものなのです。」

3)        書の大衆化について

書の大衆化についても、止むを得ないこととは考えていたようですが、書を鑑賞するにはある程度の教養が必要で、大衆が読めないからと言って安易に妥協することには反対でした。教養人なら漢詩も変体仮名も苦にしなかった時代を懐かしんでいたに違いありません。

近代詩文書の存在価値は認め、一時は自らも試みていましたが、満足のいく作品が出来なかったのか、やめてしまいました。現状ではまだ充分成熟した芸術の領域には達していないと考えていたようです。

一方で、「書」が実用から離れていくのを歎いていました。

芸術は時代を背景にして変遷していくのが自然なのであるから、書道も時代と共に変化するのは当然である。」

「芸術が大衆と没交渉であってはならないが、大衆に媚びては芸術の堕落である。」

元来高度の芸術はこれを賞玩するのにある程度の素養は必要のものである。大衆に書道が理解できるように、大衆の素養を高めることが大切。それには立派な書を大衆の眼に触れる機会を増やすことだ。

書道が一般社会に溶け込むには一般人の理解しやすい素材を用いる必要があるとの主張は尤もだ。この傾向は盛んになってくると思う。

近代の詩文を素材とすることを心掛ける必要はあるし、その作品に新しい傾向を取り入れるように努力しなければいけない。

素材を新しくしただけではなく、技法上も新しさを盛り込もうと苦心しているのだが、未だ充分成熟しておらず、鑑識の標準も統一されていない。

近代詩文書は出来てから日が浅いので、鑑賞の方向が未だ定まっていない。だから初心者や小学生が入選したりする。

最近の書家は展覧会作品重視で、かなり高名な書家でも、看板、表札、免状、履歴書を書かせるとまるで駄目なのがいる。

4)        墨象について

前衛書道はあまり好きではありませんでした。特に文字性のない墨象は書道とは認めていませんでした。

文字は読めなくても美しくて人の心を揺さぶるものがあれば良いと言う前衛書道家の主張も理由はあるのだが、その程度が問題で、分解が極端に進みすぎると、理屈倒れになって美しさからも遠ざかってしまう。

書道用具を用いて白紙に点や線を描き、書家と称しているが、文字を扱っていないものは「書」とはいえないから、書家の私からは何も言えない。

墨象が理解出来ないと頑迷固陋な旧時代の書道人で、墨象に理解のあることが新時代人であるかのように振舞う人が増えてきた。」


第7章 和堂先生の余技と趣味

1)        古筆の収集

古筆は、最初は専門の書の勉強・参考にと集め始めたようですが、やがて趣味で集めるようになりました。明・清や江戸期の書画が主でしたが、若干は平安・鎌倉・室町期のものも所有していたようです。大部分は亡くなる直前に国立博物館、根津美術館、荒川区に寄贈しました。「個人が持っているには多すぎるが、専用の展示場を作るには少なすぎるから」というのがその理由のようです。以下は故人の述懐です。

かなの古筆に眼を向けるようになったのは大正11年相澤先生の所に通い、古本屋で「書苑」を見つけて買ったのが始まりだったが、これは関東大震災で焼失してしまった。その後、大阪の境筋の古本屋で書苑九十二冊組四十五円也を発見し、当時22円の月給なのに大奮発して買い求め、益田石華先生に褒められた。これが縁で、東京に舞い戻ってからぼつぼつ古筆の複製品を集める気になり、古筆の迷路に踏み込み始めた。

昭和23年頃「愛知切」と「定家の消息」を入手した。

飯島春敬君に「四・五千円の買い物を十回我慢すれば四・五万円の古筆が買えるよ」とアドバイスされ、それからは年に一点ずつでもと思い、「十巻本歌合」「関戸古今」「高野切第一種」などを集めた。」

2)        空 手

 関東大震災で焼け出されて大阪に疎開していた時は、病弱で体力も弱く、見兼ねた石華先生から居合術の手ほどきを受けました。帰郷後本格的に習おうとして、中山博道の有信館道場に行ったところ、偶々休みで船越義珍先生が空手を教えていたので入門しました。義珍先生は昭和天皇が東宮の時、訪欧の途中沖縄に立ち寄られた際、御前演武を指揮して名声を上げ、空手道普及のため単身上京して有信館道場の空いた時間を借りて稽古をつけていたところでした。 

その後義珍先生の還暦記念詩文集を引き受けたり、「空手道教範」始め各種の入門書を書く手伝いをしたり、空手の賞状や看板を書いたりして、やがて4段に昇進し、中央大学や日大に師範として出稽古に行くようになりました。しかし40歳に近くなって、柔道の技を空手に取り入れるのだと称して、柔道家と他流試合をやって右腕を骨折し、長く商売の書道を休まなければならない羽目に陥り、以後は空手の実技から遠ざかるようになりました。
 それでも空手には深い愛着を持っていたようで、松濤館流空手道の顧問として、毎年浜松町にある道場の鏡開きに列席するのを楽しみにしていました。

3)        骨董品の収集

書画以外にも文房具、銅鏡、青銅器、仏像、仏具などを集めていて、特に古い物は大好きでした。文房具の中では特に硯に関心が深く、一家言持っていました。唐硯、和硯に韓国、台湾の硯も合わせて400面ぐらい集めていましたが、史料価値のあるものを除いて、遺言で門人に形見分けとして配ってしまいました。またただ集めるだけではなく、硯石の産地に足を運んでは製作工程を見学し、硯匠の話を聞いたりするのを楽しみとしていました。

硯研究家の楠文雄先生によると、唐硯の澄泥硯は古来我国では、泥を固めて焼結生成したものと伝えられていましたが、自然石ではないかと言い出したのは日本で和堂先生が最初だそうです。今日、澄泥石は蘇洲霊厳山から産出する自然石であることが確認されています。

4)        旅 行

 昔鉄道省に入りそこなって、ただで旅行するチャンスを逸した鬱憤を晴らすかのように、閑さえあれば、というより無い閑を無理に作ってしょっちゅう旅行をしていました。奈良や京都は何十回行ったか数え切れないほどだし、若い頃は次の目的地へ行くバスのステップに足を掛けながら、宿賃を値切ったものだなどと自慢していました。お金に余裕が出来てきてからは流石にこんなきわどい旅行をすることはなくなり、オリエント急行だとかナイルの船旅だとか、結構優雅な旅も経験しています。



   第8章   書の将来

 書が今後どのように推移し、発展していくのかは、過去から現在に至る書の歴史を演繹していくと、ある程度推測できます。ただし何時そうなるかはわかりませんが。

 まず大きな流れとして、効率化を図るために文字の簡略化は一層進むと思われます。中国では簡体字化が更に進み日常の文章は簡体字だけで済まされるようになるでしょう。韓国ではハングルだけが実用文字として残り、漢字はごく一部の専門家や好事家のみが讀解できる過去の文字となるでしょう。

 もし旧来の筆記様式が今後も続くとすれば、我国の文字体系も中国や韓国同様、更に簡素化効率化が進み、常用漢字は数が減り、基本はひらかな表記となると思われます。しかし ビジネスの現場では、筆記用具は筆も万年筆も鉛筆も既に過去のものとなり、ボールペンだけがなんとか命脈を保っていますが、これもいずれはキーボードと音声認識に取って代わられるでしょう。つまり実用上は、文字を読む機会は多くても、書く機会は殆どなくなることになっていくと思われます。

 読むだけで、書かなくて良いとなると、現在の漢字かな混じり文は、平かなだけを羅列した文章に比べて、圧倒的に効率のよい文字様式です。文字をひとつずつ拾い読みをするのに比べ、漢字かな混じり文は、単語をパターン認識して理解しますから、読む速度がはるかに速いのです。
 アルファベットも平かな同様の表音文字ですが、英語は単語をまとめて表記して、読みやすくしています。
This is a pen,」と書いてあれば、一目で読み取れますが、「THISISAPEN」と書かれたのでは読みにくくて仕方ありません。つまり我々が漢字を覚えなければならないように、彼らはスペルを覚えなければならないので、書く必要がないとなれば、大変さは似たようなものです。

 さて、このような環境下では、実用書道は成立しません。現在既に履歴書を半紙に筆で書く習慣は無くなりましたし、嘗て総務課の筆達者が書いていた辞令もコンピューターがプリントアウトしています。年賀状も筆で書かれたものは稀で、多くはパソコンか印刷。電子メールで済ませる人もふえてきました。書道展の招待状の宛名書きさえもパソコンのお世話になっている昨今ですから。 味気ない世の中だと言ってしまえば確かに其の通りですが、圧倒的な効率の良さには抗すべくもありません。東京から京都まで東海道を旅するには新幹線か飛行機を使います。稀に夜行寝台や鈍行に乗っていく酔狂な人はいますが、いくら風情があっても歩いていく人はまず居ないでしょう。

 従って書は実用から離れて発展してゆく宿命にあります。しかしこれは残念な事でもなんでもなく、芸術とは本来そうしたものです。絵画彫刻・戯曲小説・歌舞音曲などの芸術作品も、もともとは宗教儀式や政治広報の実用手段として発生し、やがて独立して純粋に美を追及する芸術に発展していったものです。写真なども記録手段として誕生し、初期の目的から離れて美の追求手段となるに及んで芸術の仲間入りをしました。書は長い歴史があるにも拘らず、文字があまりにも生活に密着していたため、実用性から独立するのが遅すぎたと言えるでしょう。

 嘗ての教養人は、返り点、送り仮名のない白文の漢文を読み、和歌や俳句を作り、流麗な草書や変体かなを交えて毛筆で手紙を書きました。勿論これからも書を専門に学ぶ人、書活動を職業とする人は絶えないでしょうから、このような人達は、草書も篆書も草かなも自在に扱い、漢詩も和歌も旧仮名遣いも苦にしないことでしょう。しかしこれは一部の専門家に限られることになり、一般の教養人は英語を操り、インターネットを駆使することにより重きを置くようになりつつあります。

 従って書を趣味にする人は大勢いても、嘗てのような高い教養のバックグランドを期待するのは無理な話で、専門家との間に大きな隔たりが出来てしまうのは止むを得ない事です。書を天職として打ち込む人と、軽い気持で書を楽しむ人との二極分化が、これから大いに進んでいくことと思われます。ある関西の著名な書家が「私には弟子と門人が居ます」といっていました。どう違うのですかと尋ねたところ、「月謝を払って私の生活を支えてくれるのが門人です。私は弟子からは月謝はもらいません。そのかわり徹底的にしごいて私の書の命脈を継いでもらうのです」とのことで、成る程と納得しました。

 書家は研鑽のために古典を学び、古典に準拠した作品を制作・発表して、其の成果を世に問い続ける必要はあるでしょうが、同時に一般の書道愛好家に理解でき、親しみを持たれる作品も制作して関心を引き付ける必要が出てきます。高踏的な作品だけでは一般の人達は付いていけなくなりますし、誰でも読めて理解できる作品だけでは満足のいく芸術作品にはならなくなるでしょう。

 制限された常用漢字とひらがな、簡体字、ハングルなどだけではそれらをどう連ねても単純すぎて、高度な芸術作品にまで到達するのは困難なので、勢いディフォルメが激しくなります。読んで理解してもらうことをあきらめ、文字性を捨てて墨象に徹するのも将来の方向の一つです。厳密な定義からすれば、それらは書ではありませんが、ほのぼのと心を打つ作品であれば定義にこだわる必要もありませんし、文字に拘らない分国際性が出てくる事も事実です。日本、中国、韓国にまたがった公募展の企画など楽しいかなと言う気がします。更に進んで、アルファベットやアラビア文字をベースにした墨象も含めたグローバルな合同展が開けたら、真の意味の書の国際交流と言えるのではないでしょうか。現在の漢字やかな作品をパリに持っていって国際交流と称しているのは、どうも自己満足のような気がして仕方ありません。

 一般の書道愛好家も、広い選択肢の中から自分の好みにあったスタイルの書を選んで学んだり鑑賞したり出来るのですから、書の将来は決して衰退にはつながらず、大きく開けていると思うのですが、如何でしょうか。
 書ほど簡単・手軽に誰でも楽しむことが出来、それでいてバリエーションが豊富で変化に富み、極めようとすれば奥が深くて一生かかっても極め尽くせないものは、他には一寸見当たりませんから。








 

書の歴史と植村和堂の書

(平成16年7月、湯島の斯文会の文化講演会で、「植村和堂の人と書」と題して行われた講演の草稿です。)

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カリグラフィーの一例

エジプトの神聖文字(ヒエログリフ)

イスラムの書(ペルシャ語)

               

書の線。「ゆかしき」と一息に書かれています。

日本画の線
書と共通するものがあります。

漢字の線質を活かした近代詩文書の例

かなの線質を活かした近代詩文書の例

前衛書道 1  「道」

前衛書道 2「形象HANA

墨象 1 「彩」

墨象 2 「瞳憧」

顔真卿書「顔謹礼碑」

高野切第一種

ハングル書(版本体)

ハングル書(宮体)

ハングル書(速写体)

ハングル書(調和体)

ハングルの書