父を語る

私の父、和堂・植村常次郎は、昨年7月18日に96歳で没した。年初にはまだ元気で、主催する書道展に顔を出したりしていたのだが、5月に軽い脳梗塞で倒れて根津の日本医大病院に運ばれ、2ヶ月の闘病生活の後他界した。診断書の死因は一応肺炎となっているが、医者によると病気と言うより96年間の疲れが溜まった結果なのだそうだ。病床にあっても機関誌の原稿締切りの心配をしたり、空中に字を書いたり、壁に掛ける作品の指図をしたりと、最後まで頭の中は書道で一杯だった。

父は、明治39年東京生まれ。大正7年、13歳の時に開成予備校に入学した。この頃から書道に関心を持ち、書道誌を購入して練習に励み、やがて相澤春洋氏に師事した。絵も好きであったが、家が貧しくて高価な画材が買えず、専ら書に親しんだとの事である。生来虚弱体質で、21歳のとき受けた徴兵検査は不合格。書と並んで旅行が大好きなので、運賃がただで旅行をするため鉄道省入りを考え、鉄道省秘書課への就職の内定を取り付けたが、これも体格検査ではねられてしまった。そこでやむなく書道で身を立てる決心をして本格的に勉強を始めたようだ。24歳のとき文部省習字科検定試験に合格し、私立高輪商業に奉職、27歳で結婚、浅草女子商業の書道講師も兼任して、書道教授の看板を掛け、書家として食べていく目途を立てる。当時の生徒が現在も門人の中に残っている。

平成15年の開成会報より

昭和3年、23歳の時大病を患って半年以上も療養生活を強いられた。回復してからは発奮して体力増進のために空手を習い始めた。今でこそ空手はポピュラーな武道であるが、当時はまだ富名腰義珍翁が沖縄から本土にやって来て、唐手を空手と改め、普及に努めはじめて間の無い時期だった。

「空手教範」を初め各種の入門書を書く手伝いをしたり、空手の賞状や看板を書いたりして貢献したからでもあろうか、やがて4段に昇進し、中央大学や日大に師範として出稽古に行くようになった。しかし40歳に近くなって、柔道の技を空手に取り入れるのだと称して、柔道家と他流試合をやって右腕を骨折し、長く商売の書道を休まなければならない羽目に陥ってしまった。これで大分懲りたと見えて、以後は空手の実技から遠ざかるようになった。それでも空手には深い愛着を持っていたようで、松濤館流空手道の顧問として、つい一昨年まで毎年浜松町にある道場の鏡開きに列席するのを楽しみにしていた。

昭和20年7月、太平洋戦争も末期になって、兵員不足がよほど深刻化したせいであろうか、かつて徴兵検査におちた老兵にも召集令状が届く。当時家族は空襲を避けて栃木県に疎開していて、父が一人で、東京で頑張っていたのだが、生きて再び戻れまいと覚悟を決めて、入隊前に満員列車を乗り継いで、会いに来てくれた。しかし、熊本の師団に配属後、海外へ派兵される間もなく、広島と長崎に原爆が投下され、終戦を迎えて9月には復員する。それでも、もう一二週間早く師団に配属されていたら、船に乗せられて海外に向かっていたというから、危ない所ではあったようだ。

終戦の翌年から書活動を再開し、書道関連の本を書いたり、書道団体の設立にかかわったり、書道学校を設立したりしていたが、昭和23年に母校開成学園の書道講師に就任し、25年には清和書道会を設立して活動を本格化する。爾来50有余年、月刊の機関誌「清和」は600号をこえ、毎年一回開く清和書道展は今年で55回を迎えたのだから、良く続いたものだ。継続は力なりということでもあろうか、平成8年10月東京都から「文化功労賞」を受け、平成12年3月には紺綬褒章を受章している。

私の兄弟は三人とも開成に入学した。栃木の片田舎で遊び暮らしていたので、開成がどんな学校なのか全然知らず、ただ父が教師をしていたし、家から歩いて三分の所にある学校なので当然だと思っていた。小学校では日本の六大都市のひとつは仙台だと教えられ、そう信じ込んでいたし、およそ受験勉強とは程遠い環境で過ごしていた。受験日当日、その小学校の先生が眼一杯サービスをしてくれた内申書を持って、はるばる東京へ出てきて面接を受けた。当時の長橋治作校長から「田舎の優は当てにならないから」と首をひねられたが、結局入れてもらえた。これはどう考えても親の七光りのお陰だったようだ。

昔鉄道省に入りそこなって、ただで旅行するチャンスを逸した鬱憤を晴らすように、父は閑さえあれば、というより無い閑を無理に作ってしょっちゅう旅行をしていた。奈良や京都は何十回行ったか数え切れないほどだったそうだし、若い頃は次の目的地へ行くバスのステップに足を掛けながら、宿賃を値切ったものだなどといっていた。お金に余裕が出来てきてからは流石にこんなきわどい旅行をすることはなくなり、オリエント急行だとかナイルの船旅だとか、結構優雅な旅も経験している。

家にいる時は、専ら机に向かって字や絵を書いていた。特にここ数年は、毎朝白衣観音の絵を描くのを日課とし、旅行などで描けなかったときはその分を帰ってから描き足さないと気がすまないと言う風だった。

父のもう一つの道楽は書画骨董の収集で、商売ものの古筆名跡・古写経の類は勿論、筆・墨・硯・紙・水滴といった文房具、仏像、銅鏡、青銅器、蜻蛉玉、化石から恐竜の卵に至るまで、古いものは何でも買い集めて眺めては悦に入っていた。そこで自宅の物置はお宝ともごみともつかないものの山ができていたが、入院した時に覚悟を決めたとみえて、お宝の部分は国立博物館と根津美術館と荒川区に寄贈してしまい、後は引き取り手の無いごみに近いものだけが残っている。

 日頃から「歳を取ったという実感が無い。」「この調子なら百までは生きられるだろう」というのが父の口癖で、「百歳になったら記念の出版か、個展をひらく」ことを楽しみにしていたので、それが果たせなかったのは心残りであろうが、やりたいことを眼一杯やって生涯現役を貫いたのだから、仕合せな生涯だったといえよう。その死顔は眠っているように穏やかだった。

                            (S29年卒  植村 齊)

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(伊豆ベコニアガーデンにて)

松濤館道場祭壇。掛軸は先生の書。

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