座談会

和堂先生の思い出

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(これは平成15年8月3日に根津美術館講堂で行われた、植村和堂先生を偲ぶ座談会の模様です。)

赤羽 まず清和書道会に入会された経緯とか先生の第一印象についてお話を伺いたいと思います。

鈴木(流) 西荻窪に書道学校の看板があり、その字が立派だったので習おうかなと思いました。書道学校は御茶ノ水にあり、そこで初めて和堂先生にお会いしました。そのとき竹田先生が漢字を教えてくださり、植村先生がかなを教えてくれました。竹田悦堂先生は怖い感じの先生で、植村先生はやさしい感じの先生でした。私が入った時は、飯島春敬先生や金子鴎亭先生は名前だけで実際にはこられませんでした。

楢原 若い頃はいろいろ速記だとかやっていましたが、会社の先輩に鈴木あや子さんという方がいて、書道は一生かかってもやる価値があるといわれて本部に連れて行ってもらいました。そこで植村 先生とはじめてお会いしましたが、最初に御挨拶して後は下を向いていたので第一印象はとくにありません。

赤羽先生の司会で和やかに進められる座談会

笠原 植村先生は学校時代の書道の先生でした。当時先生は20歳代だったかと思います。和服姿で弱くて青白い顔していましたので、青瓢箪というあだ名がついていました。卒業してから、絵が好きで下が書道の上手な親友に誘われて先生に入門しました。入門した時の月謝は3円(笑)、当時初任給が30〜40円でしたので、結構高かったのではと思います。稽古日には半紙に手本を3枚かいてもらいました。普段練習をしないので、前の晩にあわてて書いて持っていくと又すぐに次の週が来るという繰り返しでした。それからなんとなく今になっているのですが、ですから私の経験からいえば長い間こつこつやればうまくなるのではないかと思います。

馬場: 昭和12年に女学校に入った時の書道の先生が植村先生でした。それ以来半世紀以上、正確に言うと69年間和堂先生に師事しました。本郷の東大近くの落第横丁という狭い路地の奥に、先生が住んでおられて、学校を卒業した昭和16年から門下に入りました
戦争中、先生は相澤春洋先生の「手習い」をお手伝いしておられましたが、その後独立して鳩居堂で社中展があり、まだ空襲はありませんでしたけれど、偵察機がきたのを鳩居堂から見たのを覚えています。
当時月謝は5円だと思ってたんですけれど、お手本に百人一首を書いてくれて、でも一週間で先生にお見せするようなのが書けなくて、銀座あたりで映画をみて一ヶ月位休んで、お稽古に行った時月謝を出したら”本でも買いなさい”と返してくれました。
先ほど笠原先生が長いことこつこつやれば何とかなるとお話になりましたが、私は長いことやっても駄目だった見本です。(笑)

「赤羽」ありがとうございました。ちなみに清和書道会が正式に発会したのは昭和25年です。

「松崎」大学をでて昭和15年安田生命に入りましたが、同期入社に竹田悦堂先生がおられました。昭和16年に書道部ができ竹田先生が植村先生を呼んできました。この時に最初に先生とお会いしましたが、年は三十四、五ではなかったかと思います。いつも和服を着て信玄袋をさげていましたが、そのときはもう痩せて青白い顔をしていませんでした。 その後戦災がひどくなり、私も焼け出されたりして離れておりましたが、次にお会いしたのは白木屋での清和書展でした。会社が近くだったものですから行ったら、植村和堂と書いてあったので先生の会なんだと思って先生にお会いしました。以前安田生命でお世話になった者ですといったら、また習いに来なさいよと言われて昭和42年に入会しました。そのときの月謝は500円でした。

「垣見」先生に初めてお会いしたのは6歳ぐらいでした。当時本所緑町から深川の弥勒寺までお習字に通いました。そのうち先生はお寺をお止めにりました。
 2度目にお会いしたのは、昭和20年の9月先生に再度入門した時でした。私が書道で身を立てようと考え父に相談しましたところ、父が植村先生を探して入門を頼んでくれたのです。先生は書道で生活したいという私の希望をご存知だったので、“神田の古本屋に鳩居堂でだしているかなの手本が10冊位束になって売っているからよかったら買ってらっしゃい”などとなるべく負担にならないように気を使っていただきました。
 先生はまた天平時代の写経を貸してくださり、これを書いてみなさいといわれました。このようなことが何度かあり、“書いたのなら展覧会にだしてみなさい”といわれ、このようにして写経の勉強をしました。
 あるとき先生に、書道を教えて下さいという人がいるんですけど、と申し上げたら“教えなさいよ”と簡単にいわれるんです。名前はなんとしましょうか、母は晃舟といいましたけれどと申し上げたら、“じゃあ2代目晃舟にしなさいよ”、ということで晃舟という雅号を戴きました。その次に稽古に伺ったら模造紙が用意してあり、今看板書いて上げるよといわれ2枚ほどかいていただきました。  

「斎藤」昭和256頃だったでしょうか、有る日新聞を見ていましたら、校長尾上柴舟、漢字金子鴎亭、仮名飯島春敬、植村和堂という広告をみましたが、それが書道学校でした。私の先輩に二宮先生、堀内先生がおられ、同期が中西先生でした。実技だけでなく書道史なども教えていただきました。
 有る日植村先生が“今日はこれから中央大学へ行くからおいで”と言われて、なにしにいくのかなとついていきました。その当時の先生は坊主頭で和服に袴姿で、大学では学生達に空手を教えていました。
 私は書道学校を卒業したあと、四谷の井上さんの離れにあった先生の教場へ行くようになり、そのうちに日暮里に教場ができたのでそちらにいくようになりました。
 今おもうと書道学校は随分豪華な顔ぶれでした。書道学校にいた先生方が戦後のかな書道の復興に立ちあがって、毎日展や日書展とか現在の書道界を作りあげました。

「佐藤」19歳のとき父を亡くし、小田原で高校の書道の講師をやっていました。 昭和38年書芸文化院で女流教養講座の本を見つけて、その後ろに添削券と平安書道会で先生方の話があるということが載っていました。それで平安書道会に出席するようになったのですが、見て聞いているだけでは書けないので、先生に付こうと思い、植村先生に声をかけて“小田原に住んでいるのだけれど教えていただけますか”と聞いたら、“小田原なんか近いよ。もっと遠くから来ている人もいるんだからいらっしゃい。”といわれ、昭和41年に入門しました。
 昭和45年春1回目の個展のときに、“60歳を過ぎるといろいろ支障が出てきたので手伝ってくれないか”といわれました。お手伝いをさしていただくなら3月、半年、1年、2年と区切って、その時点でもし駄目ならいつでもそういって戴いて、お稽古だけは続けさせて下さい、と申しあげました。それが亡くなるまでお手伝いを続けることになりました。

パネラーの先生方

怒られたこと、日書美離脱のころ

「赤羽」私は先生に怒られた経験はないのですが、何人かの方は先生は恐いといわれるんですね。怒られた経験だとか印象に残ったことはありますか。

「松崎」先生はいままでは綺麗な女性に囲まれていたのが、私みたいな余計なことをいうものが入って“そんなことはありませんよ”というものだから、よく怒られていましたよ。()

「斎藤」私は怒られたのは先生の亡くなる2年位前、夢の中だけなんですね。

「松崎」何で怒られたんですか

「斎藤」それがよくわからないんですよ。() 誉められたこともありません。

「垣見」先生は怒るときはぱっと言われましたけれど、誉めるときは遠まわしにいわれましたね。 大丸で忘年会をした時人数が多かったから別室をとることにしたのですけれど、先生は“弁当にすれば場所をとらないから1部屋におさまるじゃないか”といわれましたけど、そういうわけにもいかないので2部屋に分かれておこないました。後で先生に別室の方も大層喜んでいましたよと申し上げたら、“人の悪口いって盛り上がっていたのだろう。”といわれてしまいました。()

「笠原」先生が日書美を抜けたとき、春敬先生に言われてまた顧問に残ると言われたことがありました。そのとき、植村先生が止めるというから私達も止めました。先生が止めるというから仲田先生も止めましたし、仲田先生のお弟子さん達も止めたんです。と申しあげました。そのとき一寸恐い顔をされました。

「赤羽」そのときのことはよく覚えています。ちょうど昭和40年に父が亡くなって、その前に3回ほど毎日展にも入選していたのですが本業が忙しくなったものですから、公募展は一切止めることにしたのです。しかし前の年教育部の審査員に推薦されたものですから、暮れの忙しいときにとても日書美のお手伝いは出来ないし、そうなれば清和書道会も止めなければと思ったのですが、止めなくてすむようになりました。

「松崎」私の場合昇格して歌舞伎座に先生方を招待しました。その年に先生が日書美を止められたので、全部パー。()

「楢原」日書美の教育部の審査員になる予定だったのですが。先生に“悪いねせっかく努力してここまできたのに”と言われて一席もうけて下さいました。四谷の人達を全部招待して下さいました。

「高田」その前年、平田さんと2人一般部の審査員に推薦されたのですけれどお断りしました。

聴衆の皆さん

書のこと

「斎藤」古筆の全臨を先生のところにお持ちしたとき、“何回やった”と聞かれたので“4回やりました”といったら“4回じゃやった内に入らないね”といわれました。

「高田」それは深山先生と交流がおありになっていたからでしょう。深山先生は、臨書は10回やりなさいといわれていました。私は2週間に1回全臨を持っていきました。

「松崎」先生に臨書ばかりやっていると奴書になると聞きましたがといったら、“奴書になるほど臨書をしている者はいないよ”といわれてしまいました。 上野の森美術館で清和書展をやったとき、巻子の臨書がよくできていてうまいと言われて先生が喜んでおられましたが、臨書ばっかりでつまらない、という声も聞いていたので、先生のお耳に入らないこともあるんですよ、と申し上げました。そうしたら“そんなことは分かっているよ”と言われました。

「笠原」そういえば武士桑風さんと言い合ってたこともありましたね。

書道以外のこと

「斎藤」先生は門人の方を連れて毎年夏になると旅行に行っていましたけれど、お金がなかったせいか安い旅篭のようなところに泊まって早くから出かけて。そんな旅行をしていました。

「笠原」鈴木先生がいらしたとき私達は先生の同僚の名前を使って教員宿舎に泊まったことがありましたよ。

「斎藤」お蔭様で仏教美術とか、書道以外の美術についても、何年位に作られて、どういう特徴があってとかいろいろ説明してくださり、目を開かせてもらいました。

「笠原」でも先生一生懸命しゃべっているのに皆寝ていたわよ。出発というと起き出して、次のお寺につくとまた寝るの()

「斎藤」先生に教えていただいた基礎があったから、その後美術の話があっても理解することができるようになりました。

「赤羽」私は本部に行っていたのですけれど、7時半に稽古が終って先生もほっとするんでしょうねえ、いろいろ先生がお持ちの美術品を見せていただいて、“書道を習っても字だけじゃだめだよいろいろなものを見て広がっていくんだから”といわれました。

「馬場」先生がうちでお稽古をやっていたとき、終ってから結構話がながいんですよね。先生電車がなくなりますよといったら、その頃堀切に住んでいらして、歩いて帰るよといわれました。()

「赤羽」こんないいものを展示しているよ。とか展覧会のことを教えてくれたりしました。そうするとだんだん知識に広がりが出てくるんですよね。

「馬場」最初は聞きかじりでも、他の人よりも多少関心がもてるようになりましたね。

誉められたこと

「赤羽」時間も終りに近づいてきましたが、会場の方でパネラーの先生になにかお聞きしたいことはありませんか

「質問」植村先生にいわれてうれしかったことはなんでしょうか。

「笠原」昭和45年の個展をやったときに大成功・大成功といわれたことです。先生はあまり誉めない方ですけれど、あの時は2回いいました。
 あのときは堀内さんが病気だったのかいなくて、私と内山先生とで高島屋と折衝したんですけれど、パーティーが始まると出てくる料理が少ないんですよ。嶋村さんが会計したとき料金が予定より10万円少なかったのです。先生にすみませんでしたといったら、“いやよくやってくれたあれでいい、有難とう。”と初めて御礼をいわれました。()

「垣見」あまり誉めてもらった記憶はありませんが、銀座のアートサロンと小津で展覧会を開いたとき、“もうあなた一人で出来るよね”とおっしゃいました。その後の社中展で“一人でここまでよくやってきたね”と言っていただきました。それが最後のお褒めのお言葉でした。

「佐藤」先生が最後のころ2楷でお休みになっていたとき、先生はご自分が長くないことをわかっていらして、長いこといろんなことがあったけれど皆のお陰で今まで生きてこられた。今自分の持っているものはみなからの預かりものだから、また世間に返したいといって3箇所に寄付され、皆様に感謝して亡くなっていったと私は信じてご冥福を祈りたいと思います。

「赤羽」どうも長いあいだ有難うございました。

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